プルラリティ · 3-3
失われた道
コンピュータ技術の開発と活用に関する決定は、「公共の利益」のためだけではなく、国民自身が自分たちの将来を形作る意思決定プロセスに参加する手段を与えるために行われなければならない。
─J・C・R・リックライダー、「コンピュータと政府」、1979[1]
社会への⿻的理解は、量子力学や生態学などの分野が自然科学、物理技術、自然との関係にもたらしたような、劇的な社会変革の基盤を築けるだろうか。自由民主主義国は、しばしば自分たちが多元主義社会だと自画自賛する。すると⿻社会科学から得られる教訓をすでに活用しているのだろうか? だが多元主義と民主主義を形式的には採用していても、ほとんどの国は、利用可能な情報システムの限界のため、そのような価値観と真っ向から衝突し、一元論的アトム主義の型に従って、社会制度を均質化し単純化せざるを得ない。⿻社会科学とその上に築かれた⿻の大きな希望は、ITの潜在能力を利用してこれらの限界を次第に克服することなのだ。
⿻の打ち上げ
これは、ウィーナーの後を継ぎながらも、もっと人文社会科学分野の背景を持った若い世代が追求した使命だった。この世代には、人類学者のマーガレット・ミード[2](インターネットの美学に大きく影響)、W・エドワーズ・デミング[3](「2–1玉山からの眺め」で見たように、日本と、それには劣るが台湾の包括的な工業品質手法に影響)、スタッフォード・ビア[4](ビジネスサイバネティックスの先駆者で、1970年代初頭のチリにおける短命なサイバネティック社会主義政権など、ウィーナーのアイデアの社会的応用の第一人者)など、応用サイバネティックスの先駆者たちがいる。彼らは、ウィーナーのビジョンに基づきながらも、もっと実務的な構築を行い、情報化時代を代表する技術を形成した。しかし、この研究の最も野心的で包括的な影響は、1957年10月に空を横切った点(訳注:世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げのこと)を嚆矢こう しとするものだった。この物語は、M・ミッチェル・ワールドロップの『夢の機械』(未邦訳)で見事に語られており、以下に述べる内容の多くはそこから拝借している[5]。
■スプートニクと高等研究計画局(ARPA)
ソ連による初の軌道衛星打ち上げの1カ月後、ゲイザー委員会の報告書が発表され、米国はミサイル生産でソ連に遅れをとっていると主張された。その後の道徳的パニックにより、アイゼンハワー政権は、米国の戦略的優位性を国民に再確認させるため、緊急措置をとるしかなかった。しかし軍人としての経歴にもかかわらず、あるいはそのせいで、アイゼンハワーは、科学者を大いに尊重する一方で、米国の「軍産複合体」と名付けた組織に深い不信感を抱いていた[6]。そのため彼は冷戦の情熱を、科学研究と教育を向上させる国家戦略に向けようとした[7]。
この戦略には多くの側面があったが、その中心のひとつは、国防総省内に設立された、準独立で科学的に運営される高等研究計画局(ARPA)だった。この局は大学の専門知識を活用し、国防に応用できる野心的で画期的な科学プロジェクトを加速させようとしていた。
ARPAは多くの目的をもって開始され、そのうちのいくつかはすぐに米国航空宇宙局(NASA)などの他の新設機関に移管されたが、二代目の局長であるジャック・ルイナの指揮下で、野心的で「ぶっ飛んだ」プロジェクトを最も熱心に支援する政府機関としての地位をすぐに確立した。このリスクを冒すやり方の特に代表格となる分野が、J・C・R・リックライダーが率いる、情報処理技術局だった。
リックライダーは、ジョージの政治経済学、ジンメルの社会学、デューイの政治哲学、ウィーナーの数学とはまた別の分野の出身だ。通称「リック」と呼ばれた彼は、1942年に心理音響学で博士号を取得した。初期のキャリアでは、技術(特に航空)と何かが起こった時の影響が大きい人間の相互作用における、能力向上のためのアプリケーションの開発に携わっていたが、次第に最も急速に成長している機械である「コンピューティングマシン」と人間の相互作用の可能性に関心を持つようになり、マサチューセッツ工科大学(MIT)に入学し、リンカーン研究所と心理学科の設立に協力した。その後民間に移り、MITからスピンオフした最初の研究スタートアップのひとつであるBolt, Beranek and Newman社(BBN)の副社長となった。
BBNの経営陣を説得してコンピューティングデバイスに注目させたリックライダーは、当時台頭しつつあった人工知能の分野とは別の技術ビジョンを考案し始めた。心理学の知識を生かし、彼は「人間とコンピュータの共生」を提案した。これは彼の1960年の画期的な論文の題名でもある。リックライダーは、「やがて(中略)『機械』は、現在その領域のみで考えられている機能のほとんどにおいて人間の脳を上回るようになるだろう(中略)しかし(中略)人間とコンピュータが協力して主な進歩を遂げるかなり長い期間があるだろう(中略)その期間は人類史上、最も知的に創造的で刺激的な時期となるはずだ」という仮説を立てた[8]。
これらのビジョンは、ARPAにとって、またとないドンピシャなタイミングで登場した。ARPAは、急速に融合する国家科学行政の分野で、自らの立場を確保するための大胆なミッションを模索していたからだ。ルイナはリックライダーを、新設の情報処理技術局(IPTO)責任者に任命した。リックライダーはこの機会を利用して、後に計算機科学の一部となる仕組みの多くを考案して立ち上げた。
■銀河間計算機ネットワーク
リックライダーがARPAに在籍したのはたった2年間にすぎないが、ARPAは、この分野のその後40年間で展開する多くのことの基盤を築いた。彼はアメリカ全土に「時分割」プロジェクトのネットワークを広げ、それまではモノリシックだった大型計算機を複数の個人ユーザーが直接操作できるようにして、パーソナルコンピュータ時代への第一歩を踏み出した。これで支援を受けた5つの大学(スタンフォード大学、MIT、カリフォルニア大学バークレー校、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、カーネギーメロン大学)は、計算機科学という新興学術分野の中核となった。
現代のコンピューティングの計算的および科学的バックボーンを確立するだけでなく、リックライダーは特に、自分の専門である「人間的要素」に焦点を当てた。彼は人間の持つ社会的側面と個人的側面に対応する2つの形で、これらの野心をネットワークに表現させようとした。その一方で、計算機利用をもっと多くの人々の生活に近づけ、人間の心の機能と統合できそうだと思ったプロジェクトに特別な注意と支援を与えた。その代表例は、スタンフォード大学でダグラス・エンゲルバートが設立した拡張研究センターだ[9]。彼はこれらのハブ間のコラボレーションネットワークを、いつもながら冗談めかして「銀河間計算機ネットワーク」と名付け、それがコンピュータを介したコラボレーションと共同ガバナンスのモデルとなることを期待した[10]。
このプロジェクトは、短期的にも長期的にも、さまざまな形で成果をあげた。エンゲルバートは、マウス、GUIとハイパーテキストの核となるビットマップ画面など、パーソナルコンピュータの多くの基礎的な要素をすぐに発明した。リックライダーの最初の資金提供からわずか6年後にエンゲルバートが行ったこの成果のデモ「oNLineシステム」(NLS)は、「すべてのデモの母」として記憶されており、パーソナルコンピュータの開発における決定的な瞬間だった[11]。これは、Xeroxがパロアルト研究所(PARC)を設立するきっかけとなり、その後パーソナルコンピューティングの多くがここで開拓される。『USニューズ&ワールドレポート』は、リックライダーが資金提供した5つの学部のうち4つを、国内の計算機科学部のトップ4として挙げている[12]。最も重要なのは、リックライダーが民間部門に移った後、銀河間計算機ネットワークが彼の協力者であるロバート・W・テイラーのリーダーシップの下、ここまで空想的ではなく、ずっと深遠なものに発展したということだ。
■ネットワークのネットワーク
テイラーとリックライダーは当然ながら同僚だった。テイラーは結局最後まで博士号を取得しなかったが、彼の研究分野も心理音響学で、リックライダーがIPTOを率いていた間、ARPAから分離したばかりのNASAでリックライダーの相方を務めていた。リックライダーが去った直後(1965年)、テイラーはIPTOに移り、アイヴァン・サザーランドの傘下で、リックライダーのネットワーク構想の発展を手伝った。サザーランドはその後学界に戻り、テイラーはIPTOと、彼が控えめにARPANETと名付けたネットワークの責任者となった。彼はその権限を利用して、リックライダーの以前の本拠地であるBBNにARPANETバックボーンの最初の実用的なプロトタイプの構築を依頼した。エンゲルバートのパーソナルコンピューティングのデモとARPANETの最初の実験成功を通じてこの活動の勢いが増し、リックライダーとテイラーは1968年の論文「コミュニケーション装置としてのコンピュータ」で、パーソナルコンピューティングとソーシャルコンピューティングの将来の可能性に関するビジョンを明確に述べ、数十年後にパーソナルコンピューティング、インターネット、さらにはスマートフォンの文化となるものの多くを述べている[13]。
1969年頃には、テイラーはARPANETの使命が成功に向かっていると感じ、XeroxのPARCに移り、計算機科学研究所を率いて、このビジョンの多くを実用的なプロトタイプへと発展させた。これらは、スティーブ・ジョブズがMacintosh用にXeroxから「盗んだ」ことで有名な、現代のパーソナルコンピュータの核となり、ARPANETは現代のインターネットへと進化した[14]。つまり、1980年代と1990年代の技術革命は、1960年代のこの非常に小さな革新者グループにまで遡さかのぼれるのだ。これらの有名な後年の展開については後述する。だがそれらを可能にした研究プログラムの核心については、ここでじっくりと検討する価値がある。
インターネットの発展の核心は、集中、線形、アトム化された構造を、⿻関係とガバナンスに置き換えることだった。これは次の3つのレベルで起こり、最終的には1990年代初頭に集大成されてワールドワイドウェブとなった。
①集中型交換機に代わるパケット交換
②線形テキストに代わるハイパーテキスト
③政府と企業のトップダウンの意思決定に代わるオープン標準設定プロセス
これら3つのアイデアはすべて、リックライダーが形成した初期のコミュニティの端から芽生えたもので、それがARPANETコミュニティのコア機能に成長した。
ネットワーク、冗長性、共有の概念はリックライダーの当初のビジョンにも浸透しているが、通信ネットワークが集中型ではなく分散型構造を目指すべき理由と方法を明確に述べたのは、ポール・バランの1964年のレポート「分散通信について」だった[15]。
バランは、集中型交換機は普通の状況なら低コストで高い信頼性を実現できるが、障害に対しては脆弱だと主張した。多数の中心を持つネットワークは、安価で信頼性の低いコンポーネントで構築できるうえ、かなりの破壊的な攻撃に対しても「被害を迂回してルーティング」することで耐えられる。事前に指定された計画に従うのではなく、そのときに提供されているものに基づいて、ネットワークの中で動的な経路を採ればいいからだ。バランはベル研究所の科学者から支援と激励を受けたが、そのアイデアは、高品質の集中型専用機械が文化に深く根付いている、全米電話独占企業AT&Tに完全に却下されてしまった。
パケット交換は民間企業AT&Tの利益にとっては明らかな脅威だったが、核ミサイル攻撃の脅威のおかげで生まれた別の組織、ARPAからは好意的に見られた。1967年の会議で、ARPANETの最初のプログラム責任者ローレンス・ロバーツは、バランと同じアイデアを同時かつ独立して開発していたドナルド・デイビスのプレゼンテーションを通じてパケット交換について知り、バランの議論も学んでそれを活用し、チームにその概念を売り込んだ。図3–3–Aは、そこから生まれた初期のARPANETの分散論理構造を示している。
出典:Wikipedia, public domain[16]
このように、ネットワーク思考への道のひとつは技術的な回復力の要請から生じたものだったが、もうひとつ創造的な表現を求めて生まれた道もあった。テッド・ネルソンは社会学者として訓練を受け、1959年にサイバネティックスの先駆者であるマーガレット・ミードをキャンパスに招き、民主的で多元的なメディアのビジョンを学んで、作品のインスピレーションを得て、アーティストへと成長した。これらの初期の経験の後、20代前半からは「ザナドゥ計画」の開発に人生を捧げた。これは、コンピュータネットワーク用に、革新的な人間中心のインターフェース作成を目指したものだった。ザナドゥにはネルソンが不可欠と考えたコンポーネントが多すぎたため、2010年代まで完全にはリリースされなかったが、彼がエンゲルバートと共同開発した中核アイデアは、「ハイパーテキスト」と呼ばれるものだった。
ハイパーテキストは、原作者によって押し付けられた直線的な解釈の専横からコミュニケーションを解放するものだという。さまざまな順序で素材を結びつける(双方向の)リンクのネットワークを通じて、素材を通る経路の「多元主義」(と彼の名付けたもの)を強化する、というのがネルソンの構想だった[17]。この「自分独自の冒険を選ぶ[18]」という性質は、今日ではインターネット利用者のブラウジング体験で十分おなじみのものだが、1980年代にはすでに商用製品(ハイパーカードに基づくコンピュータゲームなど)として登場していた。ネルソンは、このようなナビゲーションと組み換えの容易さで、かつてない速さと規模で新しい文化と物語が形成されると想像した。このアプローチの威力が有名になったのは、1990年代初頭にティム・バーナーズ=リーがそれをナビゲーションに対する「World Wide Web」アプローチの中心に据えたときだった。これでインターネットの広範な導入の時代が到来した。
エンゲルバートとネルソンは生涯の友人であり、多くの類似ビジョンを共有していたが、それを実現させようとして採った道はまったく異なっていた。どちらの道にも(後で見るように)重要な真実の種があった。エンゲルバートは先見の明がある一方で、徹底した実用主義者であり、巧みな政治運営者でもあり、パーソナルコンピューティングの先駆者と目されている。ネルソンは芸術的純粋主義者であり、列挙した17の原則[19]をすべて具現化したザナドゥを数十年にわたり執拗に追求した結果、キャリアが台無しになった。
これに対し、リックライダーのネットワークに積極的に参加していたエンゲルバートは、他のネットワークノードに自分のアプローチを支持、採用、少なくとも相互運用するよう説得しなければならなかったため、野心のゴリ押しは抑えた。また、さまざまなユーザーインターフェースとネットワークプロトコルが急増するにつれて、彼は完璧さの追求を控えた。エンゲルバート、そしてプロジェクト全体の同僚たちは、しばしば競合する勤務先の大学間で、構築していた通信ネットワークの支援を受けた相互協力の文化を育み始めた。物理的に分離されており、ネットワークの緊密な調整は不可能だったため、最小限の相互運用と明確なベストプラクティスの普及を確保する作業は、ARPANETコミュニティの中心的な特徴となった。
この文化は、スティーブ・クロッカーによる「Request for Comments」(RFC)プロセスの開発に現れている。これは、地理的およびセクター(政府、企業、大学)に分散した多くの協力者による、非公式で主に付加的なコラボレーションであり、「wiki」のようなプロセスの皮切りのひとつと言える。これがさらに、共通のネットワーク制御プロトコル、そして最終的には伝送制御およびインターネットプロトコル(TCP/IP)に貢献した。これはTCPが最初にRFC675として配布された1974年から、TCPが公式のARPANETプロトコルになった1983年まで、ヴィント・サーフとボブ・カーンの有名な、ミッション主導型でありながら包括的で応答性の高いリーダーシップの下で進められたものだ。このアプローチの核心は、「ネットワークのネットワーク」という構想であり、これが「インターネット」の名前の由来となる。つまり、大学、企業、政府機関にある多様なローカルネットワークが相互運用し、長距離間でほぼシームレスな通信を可能にするという構想で、これは政府によって上から下へと標準化された中央集権型ネットワーク(フランスの同時代のMinitelなど)とは対照的だ[20]。これらの3つのネットワークの側面(技術的な通信プロトコル、通信コンテンツ、標準のガバナンス)が融合して、今日私たちが知っているインターネットが誕生した。
勝利と悲劇
このプロジェクトから生まれた成果の多くはあまりに有名で、ここで繰り返すまでもない。1970年代、テイラーのXerox PARCは、高価で商業的には成功しなかったものの、革命的な一連の「パーソナルワークステーション」を製造した。これらのワークステーションには、1990年代のパーソナルコンピュータの特長の多くが搭載されていた。同時に、コンピュータコンポーネントが幅広い層に提供されるようになると、AppleやMicrosoftなどの企業は、もっと安価ながらユーザーフレンドリーではないマシンを広く提供し始めた。Xeroxは発明品の商業化に苦戦し、株式と引き換えにAppleの共同設立者スティーブ・ジョブズに自社の技術へのアクセスを許可した。その結果、Macintoshが現代のパーソナルコンピューティングの先駆けとなり、MicrosoftはWindows OSを通じて大規模なスケーリングを実現した。2000年までに、アメリカ人の大多数が自宅にパーソナルコンピュータを所有するようになり、インターネットも着実に普及した(図3–3–B)。
出典:Our World in Data[21]
■インターネットと不満を抱く者たち
そして、当初から並行して発展してきたインターネットはパーソナルコンピュータ同士をつなぐようになった。1960年代後半から1970年代前半にかけて、大学、米国外の政府、国際標準化団体、BBNやXeroxなどの企業内など、さまざまなネットワークが、最大のARPANETと並行して成長した。カーンとサーフの指導とARPA(現在は「防衛」の重点を強調するためDARPAに改名)の支援を受けて、これらのネットワークはTCP/IPプロトコルを利用して相互運用を開始した。このネットワークがスケールするにつれ、DARPAは先進技術ミッションという限界を抱えていたため、ネットワークの維持管理を行う別の機関を探した。多くの米国政府機関から支援は得られたが、米国科学財団(NSF)が最も幅広い科学者の参加を得て、そのNSFNETは急速に最大のネットワークに成長し、ARPANETは1990年に廃止された。同時に、NSFNETは他の富裕国のネットワークと相互接続し始めた。
そのひとつであるイギリスで、研究者のティム・バーナーズ=リーが1989年に「ウェブブラウザ」、「ウェブサーバー」、およびハイパーテキストマークアップ言語(HTML)を提案した。これらはハイパーテキストをパケット交換に完全に接続し、インターネットコンテンツの幅広いエンドユーザー利用をはるかに容易にした。1991年にバーナーズ=リーのワールドワイドウェブ(WWW)が開始されて以来、インターネットの利用者は、約400万人(主に北米)から、2000年代末までに4億人以上(主に全世界)にまで増加した。シリコンバレーでインターネットの新興企業が急成長し、多くの人が家庭のコンピュータを通じて生活をオンラインに移行し始めたことで、ネットワーク化されたパーソナルコンピューティング(「通信デバイスとしてのコンピュータ」)の時代が到来した[22]。
2000年代の好況と不況の高揚感の中で、業界を悩ませていた亡霊、忘れ去られたテッド・ネルソンに注目する人はテクノロジー業界にはほとんどいなかった。理想的なネットワークと通信システムを求める探求を数十年続けたネルソンは、WWW設計の安全性の欠如、搾取的な構造、非人道的な特徴について絶えず警告した。安全なIDシステム(ザナドゥ原則1と3)がなければ、国家と企業による無政府状態と土地の奪い合いが避けられない。商取引のための組み込みプロトコル(ザナドゥ原則9と15)がなければ、オンライン作業の価値が下がったり、金融システムが独占企業に支配されたりする。安全な情報共有と管理のための優れた構造(ザナドゥ原則8と16)がなければ、監視と情報のタコツボ化が蔓延する。一見成功したように見えても、WWWインターネットは悲惨な結末を迎えるしかない運命だ、と彼は主張した。
ネルソンはいささか変人ではあったが、十分に成功したと胸を張れるはずの主流インターネットの先駆者たちでさえ、彼の懸念をきわめて広く共有していた。TCP/IPが統合されつつあった1979年という早い時期に、リックライダーは名論説「コンピュータと政府」の中で、コンピュータの将来について「2つのシナリオ」(良いシナリオと悪いシナリオ)を予見した。独占的な企業支配によって支配され、その可能性が抑制されるか、コンピュータが民主主義に奉仕し、それを支えるように社会全体が完全に動員されるか、というシナリオだ[23]。前者のシナリオではさまざまな社会悪が生じ、情報化時代の到来が民主的な社会の繁栄を多くの面で阻害しかねないという。たとえば次のような社会悪だ。
①監視が広まり、国民の政府への不信が深まる。
②政府が国民の使用する主流の技術に遅れをとってしまい、規制や法律執行能力が麻痺。
③クリエイティブな職業の品位低下。
④独占と企業による搾取。
⑤デジタル誤情報が広まる。
⑥情報のタコツボ化により、ネットワークの可能性の多くが損なわれる。
⑦政府のデータと統計がますます不正確でどうでもよくなる。
⑧言論と公共の議論のための基本的なプラットフォームが民間企業に支配される。
インターネットが普及すると、こうした批判は杞憂に思えてきた。政府がリックライダーの想像ほど中心的な役割を果たすことはなかったものの、2000年までには、彼の警告を知っていた数少ない評論家のほとんどは、コンピュータが民主主義を促進するというシナリオが実現していると考えた。しかし、新世紀の最初の10年後半までに、いくつかの場所では懸念が高まっていた。仮想現実の先駆者ジャロン・ラニアーは、二冊の本『人間はガジェットではない』と『未来を所有するのは誰?』(未邦訳)で警鐘を鳴らし、ネルソンとリックライダーのインターネットの将来に関する懸念を彼なりに述べた[24]。これらは当初、ネルソンの異端の考えを増幅させただけのように見えたが、「2–0ITと民主主義 拡大する溝」で論じた一連の世界的な出来事により、最終的には世界中の多くの人々がインターネット経済と社会の限界に気づくようになり、テックラッシュも加速した。これらのパターンはリックライダーとネルソンの警告と驚くほど似ている。インターネットの勝利は、当初思われていたよりもはるかにもろいものだったのかもしれない。
道ダオの喪失
ハイパーテキストとインターネットの創始者たちがこうした罠を明確に説明していたのに、なぜそれにはまってしまったのだろうか? インターネットの開発を先導してきた政府と大学が、1970年代以降の情報化時代の課題に立ち向かわなかったのはなぜなのか?
1979年にリックライダーが「コンピュータと政府」を書くきっかけとなったのは、ARPA(現在のDARPA)の焦点がネットワークプロトコルのサポートから、もっと直接的な兵器に焦点を当てた研究へと移行したのを危険信号と見なしたことだった。リックライダーは、これが政治的スペクトルの両極にある2つの力から生じた結果であると見ていた。一方は、後に「新自由主義」と呼ばれることになる「小さな政府を目指す保守主義」の台頭により、政府は産業と技術への積極的な資金提供と形成から撤退したこと。他方では、ベトナム戦争のため、左派の多くが国防当局による研究方針の設定に反対するようになったこと。これで1970年、1971年、1973年のマンスフィールド修正条項が制定され、ARPAは「防衛機能」に直接関係しない研究に資金を提供できなくなった[25]。これらにより、DARPAの焦点は、軍事に直接役立ちそうな暗号や人工知能などの技術へと転換したのだ。
しかし、たとえ米国政府の関心が転換していなかったとしても、インターネットは急速に成長したので、政府の管轄と管理の範囲をすぐに超えてしまっただろう。インターネットはますますグローバルなネットワークになったが、(デューイが予測したように)ネットワーク社会を広く成功させるために必要な、社会技術的課題に対処する必要投資を行うような、明確な公的機関は存在しなかった。リックライダーの言葉を引用すると
コンピュータ技術自体の観点からは、輸出は(中略)コンピュータの研究開発を促進するが、人類の観点からは、急速な開発ではなく賢明な(中略)開発が(中略)重要になるだろう。セキュリティ、プライバシー、危機対応準備、参加、脆弱性などの重要な問題を適切に解決しなければ、コンピュータ化とプログラム化が個人と社会にとって良いことだと結論付けることはできない。(中略)米国がこれらの問題を賢明に解決できると完全に確信しているわけではないが、他の国に比べれば、米国がその役を担う可能性が最も高いとは思う。そう考えると、コンピュータ技術の輸出よりはむしろ、米国が本当に望む未来を理解し、それを実現するために必要な技術を開発する努力を活発に行うほうが、人類に貢献できるのではないかと思えてしまう。
公共部門と社会部門による投資の役割が衰退したため、リックライダーやネルソンのようなリーダーがインターネットに期待していたコア機能/レイヤー(ID、プライバシー/セキュリティ、資産共有、商取引など。これらは本書でも後出)は、不在のままとなった。インターネット上で実行されるアプリケーションとWWWの両方で大きな進歩は見られたが、リックライダーの執筆時点で、すでにプロトコルへの基本的な投資はほぼ終了していた。「ネットワークのネットワーク」の定義と革新において、公共部門と社会部門はほとんど何も貢献しなくなった。
その結果生じた空白に入り込んだ民間部門は、パーソナルコンピュータの成功に沸き立ち、レーガンとサッチャーの感動的な祝賀会で膨らみ、ますます元気になっていた。リックライダーがインターネットの発展を支配し、阻害しかねないと恐れていたIBMは、技術の変化に追いつけなかった。しかし意欲的で有能な引き継ぎ役はたくさんいた。NSFが自主的に手放したインターネットバックボーンは、少数の通信会社が引き継いだ。NetscapeとMicrosoftがウェブブラウジングの覇権を争うなか、AOLやProdigyなどのウェブポータルが、ほとんどのアメリカ人のウェブ接続を支配するようになった。無視されていたID機能は、GoogleとFacebookの台頭で埋められた。不在のデジタル決済は、PayPalとStripeによって埋められた。そもそも「銀河間計算機ネットワーク」作業の動機となった、ストレージ、計算能力、データを共有するためのプロトコルも不在だったが、そのような共有を可能にするプライベートインフラ(「クラウドプロバイダ」としばしば呼ばれるAmazon Web Service(AWS)やMicrosoft Azureなど)が、アプリケーション構築のプラットフォームとなった[26]。
インターネットバックボーンは、セキュリティレイヤーや多少の暗号化の追加など、限定的な方法で改善を続けたが、リックライダーとネルソンが不可欠と考えた基本機能は、ついに統合されなかった。ネットワークプロトコルに対する公的資金援助はほぼ枯渇し、残ったオープンソース開発は主にボランティアによる作業や民間企業の支援で行われた。世界がインターネットの時代に目覚めるにつれ、創設者の夢は薄れていった。
品質管理となめらかな社会
インターネットは主に米国で開発されたが、サイバネティックの考え方は世界の他の地域でも根付き、まったく異なる経路で進化していった。おそらく日本ほどそれが顕著だったところはないだろう。ウィーナーのアイデアの影響は、コンピュータネットワークを通じてではなく、産業組織や社会理論へのアプローチを通じて広まっていった。インターネットのパイオニアたちが技術的なネットワークを通じてコミュニケーションを再構築しようとしたのと驚くほど並行して、日本の実務家たちはサイバネティックの原理を応用して製造プロセス、ひいては社会組織そのものを再構築しようとしていた。
第二次世界大戦後、日本は物質的にも精神的にも壊滅的な打撃を受けた。それにもかかわらず、戦後の復興は目覚ましいスピードで進み、1980年代には日本は製造業における世界的リーダーへと変貌を遂げた。この変革に大きな役割を果たしたのが、「カイゼン」や「PDCAサイクル(Plan-Do-Check-Act)」というフィードバックループによる管理と生産の実践である。このような製品管理の実践は、ウィーナーのサイバネティックのコンセプトを日本で実証した好例であった。
戦後間もない頃の日本は、工業製品を大量生産するための強固なインフラや、高品質な製造を保証するための強固な技術的枠組みがまだ整備されていなかった。製品はしばしば不良品と見なされた。1950年、日本科学技術連盟(日科技連)は、アメリカの統計学者であるW・エドワーズ・デミングに、日本滞在中に品質管理に関する講演会を開くよう依頼した[27]。[28]統計的品質管理と彼の経営哲学に関するこのシリーズは、多くの日本のビジネスリーダー、経営者、技術者、研究者に多大な影響を与えることになった。
デミングは、品質管理(QC)を単に「検査によって不良品を淘汰する」という問題として捉えるのではなく、生産ループそのものを統計的に管理し、改善を繰り返す総合的なプロセスとして捉えるべきであると強調した。また、デミングは経営トップに対して、技術者や労働者とのコミュニケーションを図り、ものづくりのトータルプロセスに対する意識を認識することで、プロセスを改善する組織風土を構築することを促した。このプロセス重視の改善への動きは、日本のものづくりの根本的なあり方を変えることになった。
1951年、日科技連はデミング賞を創設し、デミングの思想を確固たるものにした。品質管理の進歩に顕著な貢献をした企業や個人を表彰するものであった。同じ頃、後に世界有数の大企業となるトヨタ自動車は、検査中心の品質管理からプロセス中心のアプローチに移行した。このような進化は、「カイゼン」や「PDCAサイクル」と総称されるようになり、やがて日本の産業界に広く受け入れられるようになった[29]。この実践は、自己適応のためのフィードバック・ループというウィーナーのサイバネティックスの概念を実証した具体的な成果のひとつである。
また、ウィーナーのサイバネティックフィードバックループは、1980年代に後に「複雑系」と呼ばれるようになる土台となった。スチュアート・カウフマンらによって創始された複雑系は、人間、細胞、分子、コンピュータなど、多数の要素間の相互作用から生まれる高次のパターンや秩序(自己組織化や創発現象)に焦点を当てている。サイバネティックスと複雑系は、システムがどのようにダイナミックに変化し、学習し、秩序を維持・創造していくのかという共通の問題意識を持っている。
サイバネティックスを基礎に、複雑系、人工生命、人工知能、インターネット技術などの分野が自然科学や工学の分野で花開いた。1990年代にインターネットが急速に普及するにつれ、これらの技術を社会システムの改善にどのように活用できるのかという疑問が生じた。複雑系と人工生命の研究者であり、起業家でもある鈴木健は、2000年代に300年先の未来に実現するかもしれない「なめらかな社会」のビジョンを発表した。後に、彼は著書『なめらかな社会とその敵』にその考えをまとめている[30]。
なめらかな社会とは、テクノロジーによって人間の認知の限界を超えたシステムを創造し、人々が複雑性を最大限に活かして生きることのできる、よりネットワーク的な社会を生み出すビジョンである。鈴木は、世界を複雑な網の目のようなネットワークとして理解している。この世界の中で、細胞膜のように内(身体)と外(環境)の境界を作るシステムが出現し、身体が環境を認識するための自己適応システムを導く。
この膜のような存在はスケールフリーであり、進化の歴史を通じて社会に応用され、現代の国家のように厳格にメンバーシップを要求する制度につながった。一方、「核」のような存在もまた、DNAのような自由度の少ないパラメータによって細胞そのものを制御するスケールフリーのメカニズムとして登場する。「核」は、個人レベルでは自己と他者の機能を区別する自我として、社会レベルでは国家権力として機能する。このような膜と核の特性が進化の歴史を通じて繰り返されるため、私たちの社会も膜(内と外の分離)と核(権力と権威)として形成され、二項対立の解消を阻んでいる。
彼のビジョンは、テクノロジーによってこのような膜と核の構造を解決し、私たちの生活をよりネットワーク的な構造にしようとするものである。なめらかな社会では、個人はもはやそのような存在ではなく、脳の神経ネットワークを含む複数の細胞の協働によって構築されたマルチエージェントシステムである「分人」(dividual)として存在する[31]。カール・シュミットの友敵の概念を引きながら、鈴木はなめらかな社会が暴力の円滑な技術的管理によって友敵の境界を乗り越えなければならないとも指摘した[32]。その結果、人々は、社会が単一のアイデンティティを維持することを期待することなく、同時に複数のコミュニティに属することができる。
2005年頃、鈴木はさらに「構成的社会契約論」という構想を提唱した。これは、人間と機械が読み取り可能な法言語を使って自動的に実行される法の下の社会の実現を目指したものである。この構想は、ブロックチェーンによるスマートコントラクトの自動実行に基づく社会契約の基盤を構築した2014年のイーサリアムの発明に先行したものであった。鈴木は、デューイの創発的公衆が繁栄するためには、力の源泉そのものが創発的でなければならないと考えているようだ。このような考え方に基づき、鈴木は、票の分割・委譲を可能にする「分人民主主義[33]」や、貢献と価値が伝播する貨幣システム「PICSY(伝播投資通貨システム[34])」などの実験的なアイデアや社会システムも提唱している。なめらかな社会のビジョンと実践は、デジタル・デモクラシーを実証して2024年の東京都知事選挙に立候補した安野貴博をはじめ、多くの日本の社会科学者やエンジニアに影響を与え続けている[35]。
日本の戦後復興から得た洞察、すなわちフィードバックループの実践と継続的改善の文化は、サイバネティックスの原理を反映している。これらの洞察を今日のデジタルでネットワーク化された世界に適用するという鈴木のビジョンは、「もうひとつの失われた道ダオ」を再発見し、再構築するプロジェクトと見ることができる。これらの発展は、インターネットの進化とほぼ並行して、またそれとは別に起こったものだが、サイバネティックな思考を実現するためのもうひとつの道筋を示している。
フラッシュバックス
しかし、夢は薄れても頑固に残り、一日中頭から離れないものだ。リックライダーは1990年に死んだが、初期のインターネット先駆者の多くは、その勝利と悲劇を目の当たりにするまで生きながらえた。
出典:Wikipedia, used under CC 4.0 BY-SA, Author: Belinda Barnet[36]
テッド・ネルソンやザナドゥ計画の多くの先駆者たちは、今日に至るまでインターネットに対する不満を持ち続け、改革を続けている。エンゲルバートは、2013年に死ぬまで、「集合的IQを高める」というビジョンについて講演、組織化、執筆を続けた。その活動の一環として、テレンス・ウィノグラッド(Google創設者の博士課程のアドバイザー)との協力で、スタンフォード大学を拠点とするオンライン熟議のコミュニティ支援も行われた。このコミュニティは、後述するように、次世代⿻の重要なリーダーを育成した。これらの取り組みはいずれも初期のような直接的な成功はなかったが、新しい世代の⿻イノベーターへのインスピレーション、場合によってはインキュベーションという重要な役割を果たし、⿻の夢の復活と表現に貢献したのだ。
■光のノード
第1章で強調したように、ITは主に民主主義と衝突する方向に発展してきたが、この新しい世代のリーダーたちはそれとは対照的なパターンを形成した。それは、散在してはいるが、はっきりと識別できる光の点であり、新たな共通の行動によって、いつかITを大きく活性化できるという希望を与えてくれる。平均的なインターネットユーザーにとって最も鮮明な例は、おそらくWikipediaだろう。
このオープンで非営利の共同プロジェクトは、レファレンスと広く共有された事実情報の主導的なグローバルリソースとなっている[37]。序文で強調したデジタル領域の多くに浸透している情報の断片化と対立とは対照的に、Wikipediaは広く受け入れられた共通理解のソースとなっている。これは、大規模でオープンで協力的な自己統治を活用することで実現したものだ[38]。この成功は多くの面でWikipedia独自のものなので、このモデルを直接拡張しようとしても、必ずしも成功するとは限らない。そのアプローチをもっと体系的に広めるのが、本書の以下の主な狙いとなる。それにしても、Wikipediaは実に驚くべき規模の成功を遂げている[39]。最近の分析によると、ほとんどのウェブ検索の結果には、Wikipediaのエントリが大量に含まれる。商業インターネットは立派なものではあるが、この公共的で、熟議的で、参加型で、おおむねコンセンサスに基づくリソースこそが、おそらくその終着点として最も一般性の高いものなのだ。
Wikipediaの名前の由来となった「Wiki」の概念は、ハワイ語で「素早い」という言葉に由来し、1995年にワード・カニンガムがwikiソフトウェアであるWikiWikiWebを作成した際に命名したものだ。カニンガムは、リンクされたデータベースを迅速に作成できるようにすることで、右で強調したハイパーテキストナビゲーションと包摂的な⿻ガバナンスというウェブの原則の拡張を目指したのだ[40]。Wikipediaは、専門家だけでなくすべてのユーザーが標準のウェブブラウザを使用して新しいページを編集または作成し、それらを相互にリンクできるようにする。これにより、ダイナミックで進化するウェブ環境が、⿻の精神に則のっとって生み出される。
Wikipedia自体も重要な役割を担っているが、これは「グループウェア」革命を促進するという点でさらに広い影響を持つ。多くのインターネット利用者はグループウェアというと、Googleドキュメントなどの製品のことだと思っている。この革命のルーツは、オープンソースのWebSocketプロトコルにある[41]。共同作業が可能なリアルタイムMarkdownエディターHackMDは、台湾g0vコミュニティ内で、会議の議事録などの文書の共同編集、公開、共有に使用されている[42]。共同作成文書はグループウェアの代表例だが、この精神はオンラインの世界自体の基盤そのものに広く浸透している。オープンソースソフトウェア(OSS)は、参加型、ネットワーク化、国境を越えた自己ガバナンスというこの精神を体現している。LinuxOSに代表されるOSSは、パブリッククラウド・インフラの大部分の基盤であり、1億人を超える貢献者を誇るGitHubなどのプラットフォームを通じ、多くのインフラに接続している。スマートフォンの70%以上で使用されているAndroid OSは、主な保守者はGoogleだがOSSプロジェクトなのだ。このような「ピアプロダクション」の成功と影響により、標準的な経済分析の根底にある多くの仮定は、大幅な見直しを余儀なくされた[43]。
出典: GitHub Innovation Graph[44]、World Bank[45]、台湾内政部[46]
OSSは、1970年代に出現したソフトウェア業界の秘密主義と商業主義への反動として登場した。ARPANET初期の自由でオープンな開発アプローチは、公的資金の撤回後も、世界中のボランティアの労働力のおかげで維持された。リチャード・ストールマンは、フリーでないソフトウェアがユーザに課す不公正な社会システムに反対して、1980年代以来フリーソフトウェア運動を率い、利用者がソースコードを実行、研究、共有、改変できる「GNU一般公衆利用許諾」を推進してきた。1998年に、オープンソース・イニシアチブはその許諾の実務的な部分をOSSと命名し、Unixをそれに代わる、リーヌス・トーヴァルズ率いるオープンソースのLinuxに置き換えようと目指している。
OSSはさまざまなインターネットおよびコンピューティング分野に拡大し、いまやMicrosoftのようなかつては敵対的だった企業からも支持を得ている。Microsoftは現在、大手OSSサービス企業GitHubの所有者であり、著者グレン・ワイルの雇用主でもある。これは、大規模な⿻の実践、つまり共有グローバルリソースの創発的な集合的共同構築の実例だ。コミュニティは共通の関心を中心に形成され、互いの作業を自由に活用し、無給のメンテナーを通じて貢献を精査する。そして相容れない相違がある場合は、プロジェクトを並行するバージョンに「フォーク」させる。プロトコル「git」は変更の共同追跡をサポートし、GitHubやGitLabなどのプラットフォームは何百万人もの開発者の参加を促進している。本書もそのような共同作業の成果であり、MicrosoftとGitHubに支援されている。
ただし、ナディア・エグバル(現在はアスパロウホワ)が著書『公共の場で働く』(未邦訳[47])で検討したように、OSSは公的資金の引き上げによる慢性的な財政支援不足などの課題に直面している。メンテナーは何の報酬もなく、コミュニティ成長で負担は増加する一方だ。それでも、これらの課題は解決できないものではない。OSSは、ビジネスモデルの制約にもかかわらず、⿻が支援したいオープンコラボレーションの精神(失われた道ダオ)を維持するお手本なのだ。そのため、本書ではOSSプロジェクトの事例が多用される。
通信ネットワークへの公共投資削減に対する別の対照的な反応として、前述のラニアーの業績が挙げられる。AIの先駆者マーヴィン・ミンスキーの弟子であり批判者でもある彼は、AIと指向は同じながらも、人間の経験とコミュニケーションを中心に据えた技術プログラムの開発を目指した。既存のコミュニケーション形式は、言葉や画像のような耳と目で処理できる記号だけに制限されてしまっていると考えた彼は、触覚や固有受容覚(内部感覚)のような感覚でしか表現できない経験も含め、もっと深い共有と共感を可能にしたいと考えたのだ。1980年代の彼の研究と起業家精神を通じて、これが「仮想現実/VR」の分野に発展し、これはワイヤードグローブ[48]からAppleのVision Pro[49]のリリースまで、ユーザーインタラクションにおける継続的なイノベーションの源泉となっている。
しかしすでに強調したとおり、ラニアーはコンピュータを通信デバイスとして捉える文化的ビジョンを推し進めただけでなく、インターネットの欠陥や失敗に対するネルソンの批判も支持した。特に、支払い、安全なデータ共有、OSSへの起源や財政支援をサポートするベースレイヤープロトコルの欠如を強調したのだ。この主張と、2008年にサトシ・ナカモト(仮名)によるビットコインプロトコル発明のおかげで、新しい各種の取り組みが生じた。暗号とブロックチェーンを利用して、来歴と価値についての共通理解を生み出そうとするWeb3コミュニティの活動がその中心となる[50]。この分野の多くのプロジェクトはリバタリアニズムとハイパー金融化の影響を受けているが、GitCoinや分散型IDなどの多くのプロジェクトにおいては、特にヴィタリック・ブテリン(最大のスマートコントラクトプラットフォームであるイーサリアム創設者)のリーダーシップの下で、インターネット本来の指向との永続的なつながりが強調されている。それが今日の⿻の中心的なインスピレーションとなっていることを以下で示そう。
こうした思想の各種先駆者たちは、起源や価値よりも、コミュニケーションとつながりのレイヤーに重点を置いた。彼らは自分たちの仕事を「分散型ウェブ」または「フェディバース」と呼び、クリスティン・レマー・ウェバーのActivityPubのようなプロトコルを構築した。このプロトコルは、Mastodonや独立版非営利X(旧Twitter)とも言うべきBlueSkyイニシアチブに至るまで、主流のソーシャルメディアに代わる非営利の代替コミュニティ基盤となった。こうした代替コミュニティは、社会とコミュニティの関係を基盤としてIDとプライバシーを再考するための、創造的なアイデアもいろいろと生み出している。
最後に、政府と民主的な市民社会のデジタル参加を強化することで、初期のインターネットの公共および多部門的な精神と理想を復活させようという運動がある。これはおそらく私たち自身の道筋と最も密接に関連したものだ。これらの「GovTech」および「Civic Tech」運動は、OSSスタイルの開発手法を活用して、政府サービスの提供を改善し、より多様な方法で国民をプロセスに参加させている。この分野での米国の先鋒としては、GovTechの先駆Code for Americaの創設者ジェニファー・パルカや、The GovLabの創設者ベス・シモーヌ・ノヴェクがいる[51]。日本のシビックテックムーブメントを牽引する関治之は、2011年の東日本大震災後に開発されたデータ収集・可視化プラットフォームsinsai.infoの立ち上げを主導し、その後Code for Japan[52]を設立した。
特にノヴェクは、⿻の初期開発と将来をつなぐ強力な架け橋となる人物だ。前述のオンライン討論ワークショップの原動力となったし、これらの目的を達成するためのソフトウェアに最初期から取り組み、vTaiwanなどの活動に刺激を与えたUnchat開発者でもある[53]。彼女はその後、米国特許商標庁での活動、後に米国の副最高技術責任者として、右で強調したg0v運動の中核となる、透明性と包摂性を備えた実践の多くに先鞭をつけた[54]。ノヴェクはg0vだけでなく、ジュリアナ・ロティチらが創設したケニアの集団危機報告プラットフォームUshahidiから各種ヨーロッパの参加型政策立案プラットフォームまで、世界中のさまざまな野心的なシビックテクノロジープロジェクトの重要なメンターである。その実績であるDecidimはフランチェスカ・ブリアらによって設立された。またg0vと並行して起こったスペインの「Indignado」運動を発端とするCONSULの理事もノヴェクは務めている。しかしこうした重要な活動にもかかわらず、個別環境のさまざまな特徴により、台湾でg0vがもたらしたような体系的かつ国家的影響にはつながらず、マクロレベルで追跡できるほどの影響をなかなか生み出せなかった。
もちろんデジタル民主主義について、個別の面で優れた事例はある。エストニアはその代表例だろう。この国は台湾と共にジョージ主義と土地税の長い歴史を共有し、世界で最もデジタル化された民主政府と呼ばれることも多く、1990年代後半からデジタル民主主義の先駆者となっている[55]。フィンランドはその隣国エストニアの成功をもとにして拡大し、デジタル包摂をエストニア以上に社会、教育システム、経済にまで広げ、デジタル化された民主的参加の要素も取り入れた。シンガポールは地球上で最も野心的なジョージ主義スタイルの政策を持ち、他のどの国よりも創造的な経済メカニズムと基本プロトコルを活用している。韓国はデジタルサービスとデジタル能力教育の両方に多額の投資を行っている。ニュージーランドはインターネットベースの投票を先駆的に導入し、市民社会を活用して公共サービスの包摂性を向上させた。アイスランドはデジタルツールを活用して他のどの行政地域よりも広範囲に民主的参加を拡大した。ケニア、ブラジル、特にインドは開発のためのデジタルインフラの先駆者である。これらの例の多くには、本書の中でまた触れる。
しかし、このどれひとつとして、セクターを超えた社会技術的組織へのアプローチの幅広さと深さという点で、台湾にはかなわない。これらを広範な国家的事例と見なし、それが拡大して国家、文化、セクターの隔たりを埋め、インフラ基盤とグローバルデジタル社会の使命の両方を形成する様子はなかなか想像しにくいし、それが実現した場合に、世界にとって⿻がどんな意味を持つのかというのもイメージしづらい。アンカーとなる台湾の事例に、いま挙げた他の事例から得られる知見を加えることで、今度はグローバルな未来が持つ機会を深く描き出してみよう。
J.C.R. Licklider, “Computers and Government” in Michael L. Dertouzos and Joel Moses eds., The Computer Age: A Twenty-Year View (Cambridge, MA: MIT Press, 1979). ↩︎
Fred Turner, The Democratic Surround: Multimedia and American Liberalism from World War II to the Psychedelic Sixties (Chicago: University of Chicago Press, 2013). ↩︎
デミングやミードの話は,インターネット開発史に比肩するほど詳しく語る紙幅はないものの,多くの点でこの2人の先駆者は,私たちが展開する主題の多くと並行しており,工業と文化の領域で,リックライダーとその弟子たちがやったのと同じように,⿻の基盤を敷いた. UTHSC. “Deming’s 14 Points,” May 26, 2022. https://www.uthsc.edu/its/business-productivity-solutions/lean-uthsc/deming.php. ↩︎
Dan Davies, The Unaccountability Machine: Why Big Systems Make Terrible Decisions - and How The World Lost its Mind (London: Profile Books, 2024). ↩︎
M. Mitchell Waldrop, The Dream Machine (New York: Penguin, 2002). ↩︎
Katie Hafner and Matthew Lyon, Where the Wizards Stay up Late: The Origins of the Internet (New York: Simon & Schuster, 1998). ↩︎
Dickson, Paul. “Sputnik’s Impact on America.” NOVA | PBS, November 6, 2007. https://www.pbs.org/wgbh/nova/article/sputnik-impact-on-america/. ↩︎
J. C. R. Licklider. “Man-Computer Symbiosis,” March 1960. https://groups.csail.mit.edu/medg/people/psz/Licklider.html 〔「人とコンピュータの共生」リックライダー著, 山形浩生訳, https://cruel.hatenablog.com/entry/2023/04/16/033341〕 ↩︎
“Douglas Engelbart Issues ‘Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework’ : History of Information,” October 1962. https://www.historyofinformation.com/detail.php?id=801. ↩︎
J.C.R. Licklider, “Memorandum For: Members and Affiliates of the Intergalactic Computer Network”, 1963 available at https://worrydream.com/refs/Licklider\_1963\_-\_Members\_and\_Affiliates\_of\_the\_Intergalactic\_Computer\_Network.pdf. 〔「銀河計算機ネットワークのメンバーおよび関係者向けメモ」リックライダー著, 山形浩生訳, https://cruel.hatenablog.com/entry/2024/10/24/205030〕 ↩︎
Engelbart, Christina. “Firsts: The Demo - Doug Engelbart Institute.” Doug Engelbart Institute, n.d. https://dougengelbart.org/content/view/209/. ↩︎
https://www.usnews.com/best-colleges/rankings/computer-science-overall ↩︎
J.C.R. Licklider and Robert Taylor, “The Computer as a Communication Device” Science and Technology 76, no. 2 (1967): 1-3. ↩︎
Michael A. Hiltzik, Dealers of Lightning: Xerox PARC and the Dawn of the Computer Age (New York: Harper Business, 2000). ↩︎
Paul Baran, “On Distributed Communications Networks,” IEEE Transactions on Communications Systems 12, no. 1 (1964): 1-9. ↩︎
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Arpanet_logical_map,_march_1977.png ↩︎
Theodor Holm Nelson, Literary Machines (Self-published, 1981), https://cs.brown.edu/people/nmeyrowi/LiteraryMachinesChapter2.pdf 〔『リテラリーマシン ハイパーテキスト原論』テッド・ネルソン著, ハイテクノロジー・コミュニケーションズ株式会社訳, アスキー, 1994〕 ↩︎
“Choose Your Own Adventure,” Edward Packardの1976年コンセプトに基づくインタラクティブなゲームブックで, Bantam Booksから出て1980年代と1990年代に人気絶頂となり, 2.5億冊以上売れた. 90年代にコンピュータゲームの競合を受けて人気が凋落. ↩︎
https://en.wikipedia.org/wiki/Project_Xanadu#Original_17_rules ↩︎
Mailland and Driscoll, op. cit. ↩︎
World Bank, “World Development Indicators” December 20, 2023 at https://datacatalog.worldbank.org/search/dataset/0037712/World-Development-Indicators. ↩︎
Licklider and Taylor, op. cit. ↩︎
Licklider, “Comptuers and Government”, op. cit. ↩︎
aron Lanier, You Are Not a Gadget: A Manifesto (New York: Vintage, 2011) 〔『人間はガジェットではない IT革命の変質とヒトの尊厳に関する提言』ジャロン・ラニアー著, 井口耕二訳, 早川書房, 2010〕と Who Owns the Future? (New York: Simon & Schuster, 2014). ↩︎
Phil Williams, “Whatever Happened to the Mansfield Amendment?” Survival: Global Politics and Strategy 18, no. 4 (1976): 146-153 および “The Mansfield Amendment of 1971” in The Senate and US Troops in Europe (London, Palgrave Macmillan: 1985): pp. 169-204. ↩︎
Ben Tarnoff, Internet for the People: The Fight for Our Digital Future (New York: Verso, 2022). ↩︎
デミングは第二次世界大戦中およびその後,ウィーナー,チューリング,フォン・ノイマンらと共にテレオロジカル・ソサエティ(目的論学会)のメンバーであった.この協会は,世界的なサイバネティックスの基礎づくりの先駆けとなった.デミングがウィーナーのサイバネティックスから直接的な影響を受けたかどうかは確かではないが,彼の総合的品質管理のシステム設計は,サイバネティックな組織の好例として評価されている. Jenkinson, A. “Management,” Cybernetics Society., Dec 22, 2024. https://cybsoc.org/?page\_id=1489. ↩︎
JUSE. “How was the Deming Prize Established,” Dec 22, 2024. https://www.juse.or.jp/deming\_en/award/ ↩︎
トヨタは1950年代初頭に品質管理(QC)を導入し,1965年にデミング賞を受賞した. Toyota Motor Corporation. “Changes and Innovations - Total Quality Management (TQM),” 75 Years of TOYOTA., Dec 22, 2024. https://www.toyota-global.com/company/history\_of\_toyota/75years/data/company\_information/management\_and\_finances/management/tqm/change.html ↩︎
Ken Suzuki, The Nameraka Society and Its Enemies (Tokyo: Keiso Shobo publishing, 2013).〔『なめらかな社会とその敵』鈴木健著, 勁草書房, 2013〕 ↩︎
ジンメルの交差的(非)個人との共通性もみられる.ジンメルが社会的関係性からdividualを見たのに加えたが,鈴木はより生物学的視点から考察を試みたドゥルーズの”dividual”から着想している. Gilles Deleuze, Pourparlers, (Paris: les Editions de Minui, 1990).〔『記号と事件 1972-1990年の対話』ジル・ドゥルーズ著, 宮林寛訳, 河出書房新社, 1992〕 ↩︎
Carl Schmitt, Der Begriff des Politischen (Berlin: Duncker & Humbolt, 1932) ↩︎
分人民主主義は,自分の投票権を他者に委任したり,自分の票を複数の政治課題に分割したりすることを可能にする.分人民主主義については,「5-6⿻投票」の「明日の⿻投票」の注10で再び取り上げる. ↩︎
PICSY (Propagational Investment Currency SYstem, 伝播投資貨幣) ,一種の通貨システムである. PICSYについては,「5-7 社会市場」の「社会市場のフロンティア」の注21で再び取り上げる. ↩︎
安野の2024年東京都知事選の際の詳細な選挙運動については,「5-4拡張熟議」のセクションで,再び取り上げる. ↩︎
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ted-nelson-1999.jpg ↩︎
実際,研究者たちは世界各地の利用者の費やす時間から見た読むパターンを研究している. Nathan TeBlunthuis, Tilman Bayer, and Olga Vasileva, “Dwelling on Wikipedia,” Proceedings of the 15th International Symposium on Open Collaboration, August 20, 2019, https://doi.org/10.1145/3306446.3340829, (pp. 1-14). ↩︎
Sohyeon Hwang, and Aaron Shaw. “Rules and Rule-Making in the Five Largest Wikipedias.” Proceedings of the International AAAI Conference on Web and Social Media 16 (May 31, 2022): 347–57, https://doi.org/10.1609/icwsm.v16i1.19297 studied rule-making on Wikipedia using 20 years of trace data. ↩︎
ある実験で, McMahonらはwikipediaリンクのある検索エンジンは,ないものに比べて,相対的なクリックスルー率(検索の重要な指標)が80%増えたという結果を得た. Connor McMahon, Isaac Johnson, and Brent Hecht, “The Substantial Interdependence of Wikipedia and Google: A Case Study on the Relationship between Peer Production Communities and Information Technologies,” Proceedings of the International AAAI Conference on Web and Social Media 11, no. 1 (May 3, 2017): 142–51, https://doi.org/10.1609/icwsm.v11i1.14883. この研究に動機づけられ,監査研究でWikipediaは「一般的」「トレンド」のあらゆる検索結果のおよそ70-80%に登場することが示された. Nicholas Vincent, and Brent Hecht, “A Deeper Investigation of the Importance of Wikipedia Links to Search Engine Results,” Proceedings of the ACM on Human-Computer Interaction 5, no. CSCW1 (April 13, 2021): 1–15, https://doi.org/10.1145/3449078. ↩︎
Bo Leuf and Ward Cunningham, The Wiki Way: Quick Collaboration on the Web (Boston: Addison-Wesley, 2001). 〔『Wiki Way コラボレーションツールWiki』ボー・ルーフ, ワード・カニンガム著, Yomoyomo訳, ソフトバンクパブリッシング, 2002〕 ↩︎
「グループウェア」という用語は1978年にPeter and Trudy Johnson-Lenzが提唱したもので, Lotus Notesなど初期の商業製品が1990年代に登場し,リモートでのグループコラボを可能にした. Writelyを起源とするGoogle Docsは2005年に開始され,コラボ的なリアルタイム編集の概念を広く普及させた. ↩︎
Cosense, 旧名Scrapboxは,リアルタイム・エディタとwikiシステムの組み合わせで,本書の日本フォーラムで活用されている. このフォーラム訪問者は,草稿を読んで質問し,説明を加え,関連トピックスにリンクをリアルタイムで加えられる. このインタラクティブな環境は,読書会のような活動をサポートしており,参加者は質問を書き,口頭での議論に参加し,そうした議論の議事録をとれる.ネットワーク構造を維持しつつ,キーワードを改名できるという特徴は,用語法のバリエーションを統合するのに役立ち,良い翻訳を見つけるプロセスを提供する. 通読する人が増えると,知識ネットワークが育ち,その後の読者たちの理解を支援する. ↩︎
Yochai Benkler, “Coase’s Penguin, Or, Linux and the Nature of the Firm,” n.d. http://www.benkler.org/CoasesPenguin.PDF. ↩︎
GitHub Innovation graph at https://github.com/github/innovationgraph/ ↩︎
World Bank, “Population ages 15-64, total” at https://data.worldbank.org/indicator/SP.POP.1564.TO. ↩︎
Department of Household Registration, Ministry of the Interior, “Household Registration Statistics in January 2024” at https://www.ris.gov.tw/app/en/2121?sn=24038775. ↩︎
Nadia Eghbal, Working in Public: The Making and Maintenance of Open Source Software (South San Francisco, CA: Stripe Press, 2020). ↩︎
ワイヤードグローブは手袋状の入力装置. 物理的な手の動きをデジタル反応に翻訳し,利用者は身ぶりや動きを通じてデジタル環境とインタラクとできる. Jaron Lanier, Dawn of the New Everything: Encounters with Reality and Virtual Reality (New York: Henry Holt and Co., 2017). ↩︎
Vision ProはAppleが2024年に発表したヘッドマウントディスプレイ. このデバイスは高解像度ディスプレイと,利用者の動きをトラッキングし,手の動きと環境を追跡できるセンサーを持ち,没入型の混合リアリティ体験を提供する. ↩︎
Satoshi Nakamoto, “Bitcoin: A Peer-to-Peer Electronic Cash System” at https://assets.pubpub.org/d8wct41f/31611263538139.pdf. ↩︎
Jennifer Pahlka, Recoding America: Why Government is Failing in the Digital Age and How We Can Do Better (New York: Macmillan, 2023). Beth Simone Noveck, Wiki Government: How Technology Can Make Government Better, Democracy Stronger, および Citizens More Powerful (New York: Brookings Institution Press, 2010). ↩︎
Beth Noveck, “Designing Deliberative Democracy in Cyberspace: The Role of the Cyber-Lawyer,” New York Law School, n.d. https://digitalcommons.nyls.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1580\&context=fac\_articles\_chapters; Beth Noveck, “A Democracy of Groups,” First Monday 10, no. 11 (November 7, 2005), https://doi.org/10.5210/fm.v10i11.1289. ↩︎
Beth Simone Noveck, Wiki Government op. cit.; Vivek Kundra, and Beth Noveck, “Open Government Initiative,” Internet Archive, June 3, 2009, https://web.archive.org/web/20090603192345/http://www.whitehouse.gov/open/. ↩︎
Gary Anthes, “Estonia: a Model for e-Government” Communications of the ACM 58, no. 6 (2015): 18-20. ↩︎