保健

過去75年間で、人類は世界の平均寿命を25年延ばした。これは過去1万年の伸びを大幅に上回る。人類の繁栄におけるこうした進歩のうち、医療制度やバイオメディカルの応用によってもたらされた部分は主に、健康と医療に関する一元論的アトム主義モデル(「3–1⿻世界に生きる」参照)によって達成された。このようなモデル(「熱帯医学」など)は、何世紀にもわたる帝国主義と植民地主義の統治を通じて開発され、改良されてきたし、20世紀半ばに国連が設立された後で、世界中での導入が急速に加速された。たとえば天然痘の根絶、ワクチン同盟Gavi設立を通じた予防接種の大幅拡大、HIVに対する抗レトロウイルス療法の大幅拡大、高技能助産師を通じた妊産婦死亡率の激減などだ。最近では、COVID–​19の出現から2年で、COVIDワクチンを少なくとも1回以上接種した世界人口の割合が70%以上に上昇した[1]

一方で、ワクチン接種率を含む健康関連の持続可能な開発目標(SDGs)の進捗は停滞または後退している[2]。世界の人口の半分は、依然として基本的な医療サービスパッケージにアクセスできていない[3]。医療費の自己負担は貧困につながり、何億人もの人々に影響を与えている[4]。メンタルヘルスサービスは世界的にひどく未発達だ[5]。世界の早期死亡の半分は非感染性疾患によるもので[6]、年間2兆ドル以上の費用がかかる[7]。多くの国では、基本的な支援技術(車椅子、歩行器、杖、義肢、眼鏡、白杖、補聴器)を利用できるのは人口の3%以下だ[8]。これらの障害対処に成功すれば、世界の健康寿命を少なくとも20年は延ばせるし、右記の「暗雲」のすべてではないにしても、多くは消えるはずだ。


この目標実現には、保健の⿻概念(図6–2–A)を受け入れよう。もちろん、通常のサービスを提供する医師、看護師、その他の医療従事者が依然として世界には必要だ。同様に、医療施設、研究所、ワクチン、医薬品、医療機器も必要となる。しかし、それだけではない。個人とその多様性による健康主体性の共同構築を強化するべきなのだ。ジェニファー・プラ・ルガーによれば、健康主体性とは、個人が自分の健康に関して自分の利益のために行動する能力の促進である[9]。しかし健康主体性は、主に創発的、マルチスケール、埋め込み型の、複雑なものとして捉えねばならない(「3–1⿻世界に生きる」参照)。この見方と私たちがいま注目する考え方によれば、次の大いなる人間寿命延長を阻害するのは次のようなものだ。

①資金不足
②市場の欠如
③調整の失敗
④コミュニティの欠如
⑤不整合なインセンティブ
⑥支援サービスの不足

Diagram displaying the interconnected aspects of health; bubbles, each with arrows connecting them read: 'my consciousness', 'my current physical condition', 'my community, my ecosystem, my planet','my friend, my partner, my family', 'my future physical condition'

図 6-2-A 健康の関係性概念。単なるアトム的なものにとどまらず、社会的被医療者間の側面も含む



健康保険を見直す

健康保険は、各種のリスクに直面する人々が、共通の医療支出を支えられるようにする。医療費負担を支援し、時間と人間の間でリスクを平準化する。保険の「万が一の備え」としての役割は、ほとんどの人にはすぐ理解できる。しかしリスクの個人間での「プーリング」はもっと微妙だ。健康保険には、定期的に予測可能な保険料を徴収し、予測不能で突然の支出を賄う機能と、恵まれた人から恵まれない人への再分配機能とがある[10]。保険機能のうちこの後者は、恵まれない人々の苦しみを軽減するあらゆる支出に共通する。そうした恵まれない人々は、ロールズの言う「原初的立場」から見れば、社会あるいは遺伝的な不運の犠牲者なのだ[11]

実際の健康保険は、前払い、リスクプール、および再分配という3つの側面をさまざまに組み合わせる。競争市場における民間保険は、より良い情報を持つ保険会社が、低い料金でリスクの低い個人を吸い上げてしまい、このため誰でも受け入れる保険会社にはハイリスクの患者が「逆選択」されるという問題に直面する[12]。したがって、市場経済における民間健康保険は、保険数理情報に基づく健康貯蓄プラン(つまり、リスクのプールや再分配がない)に還元されがちだ。これは米国の健康貯蓄口座(HSA)のように、個人自身が管理するものとなる[13]。おかげでHSAは、保険数理情報のない個人が貯蓄率を較正こう せいできないため、万が一のための貯蓄機能を含め、保険としての意味がほとんど失われている。

その反対の極にあるのは単一支払い者方式の「国民健康保険」で、これは政府の一般会計から出資され、強制的で普遍的な公的責任により実施される。これは前払い、リスクプール、再分配という3つの要素を実現している。しかしこうした仕組みは国民国家概念にガチガチに結びついている。大規模なプーリングと再分配を行う手法は他にもあるのだ。たとえばスカンジナビア諸国はリスクの社会化で称賛されるが、アメリカのほとんどの大規模民間健康保険会社よりも人口が小さい。

この両極端の単純な二項対立に対する自然な代替方式として、実際にはこの両者に先立つ「社会健康保険」がある。連帯したコミュニティが医療を必要とする人々の面倒を見るというものだ。こうしたパターンは、家族で生活をしているほとんどあらゆる人におなじみのもので、それが部族や親族関係に拡大したのもすぐわかる。しかしこれは古典西洋文明でも重要な役割を果たした。たとえばローマのcollegia(その成員たちは、お互いを共同助手にして自分の利益を代弁するようにしてもらう)など、こうした家族関係は、生まれつつあった都市社会形成にまで拡張されている。現代の社会健康保険の仕組みも、コミュニティとしてその成員の医療費について共同責任を強調し、それにより個人の、通常はリスク調整済の保険料を、通常はリスク調整されない雇用者(当初は中世ドイツ「クナップシャフテン」などギルド)や、国家など別のアクターからの集合的な保険金負担で補う。世界中のほとんどの保健システムはもっぱら、社会保険か国民保険モデルに従うが、民間健康保険はほとんどどこにでもある。社会健康保険に対する現在の批判のほとんどは、①医療費を給与天引きを通じた賃金への課税で賄っていること、②正規部門を通じてそうした支払いに貢献している人にだけ保険を提供することについてのものだ。こうした批判は一理あるが、社会保険モデルを⿻的な視点で見ると有益だ。ある職業や雇用主を共有する個人、したがって共通の信念や価値観を共有しがちな人々が、きわめて強い連帯感を示すのは、当然至極だからだ[14]

したがって、健康保険を社会市場における「⿻財」として見直せる(「5–7社会市場」の公共財の議論を参照)。つまり、集団の規模から見ればスーパーモジュラリティを示すもの(特に、さまざまなリスクや生活状況に直面している人々)だが、ユニバーサル参加を必要としない、そこから利益さえ得ない財なのだ。⿻財は、公衆によって具現化されたさまざまな規模と形態にわたる共有信念の強さの上に成り立つ(「4–2団体と⿻公衆」を参照)。注目すべきは、健康保険の社会モデルが「団体」という存在、つまり、完全な公衆監視から保護され、⿻メカニズムによって資金提供される共有信念を実行するための、共有スペースの作成から始まったという点だ。この再概念化により、保険の範囲と役割が大幅に拡大される。保険は、単に貯蓄、リスクの平準化、または再分配を提供するだけでない。⿻保険は健康に必要な条件の資金を提供することに使えるのだ。病気や虚弱を治療するためのサービスの支払いに使うだけにとどまらない。コミュニティの相互作用が強ければ強いほど、伝染病の蔓延、安全な労働条件の確保、健康的な生活習慣の社会的普及、健康的な地域自然環境の創出など、共通の環境または行動上の健康リスクに直面する可能性が高まるからだ。健康保険は生命保険に似たものにもなれるのだ。そもそもこの2つを分けるべき強い理由はなく、まとめたほうがよい強い理由はいくつかある[15]。本質的に、このような保険基金は相互扶助団体として機能し、単に健康を回復するだけではなく、共同で健康を生み出すための協調を促進できる。つまり、「健康な身体に健康な精神が宿る」だけでなく、健康な家族やコミュニティに健康な人々が宿るというわけだ(図6–2–A参照)。このようなモデルは「健康生産社会」とも呼べる。リスクのプールと再分配を確実にするだけでなく、健康の社会的決定要因の対処にずっと適切で効果的なのだ。

たとえば、発展途上国では、きれいな水、衛生設備、適切な栄養の供給確保、あるいは富裕な国では、薬物や超加工食品の乱用を軽減など、世界で年間2000万人の死因となっている各種問題を軽減するために、このような団体を結成してはどうだろう[16]。関連するニーズはきわめて地域的であり、実際、共通の価値観、職業上の目標、信念体系に基づくコミュニティの文脈以外では、対処することが難しい場合が多い。あるいは、マラリア、HIV、結核などの感染症や世界的な伝染病に対しては、たとえば世界エイズ・結核・マラリア対策基金のような世界レベルの感染症の団体が結成されてもいい。地域の健康生産団体のための国営再保険会社は、介入に最も効果的な地域ネットワークが、共有された健康リスクに過度に陥らないようにすることに役立つ。つまり、交差するさまざまな健康生産社会は、リスクのプールをスーパーモジュラリティの一例と認識しつつ、健康に関するアトム的、リスクベースの理解を超えて、健康におけるあらゆる社会的課題に取り組めるのだ。そのような社会は、コミュニティの合意、共通の理解/目的を構築し、それを損なう可能性のある外部の監視(国営保険会社などによる)から行動を保護するために、右で説明したさまざまな技術を使う。

保険の影響のトークン化

この議論の目的上、アウトプットは保健サービスの直接的な結果(例:ワクチン接種を受けた人々)、アウトカムは最終的な意図された結果(例:罹患率または死亡率のリスク低減による死亡回避)、そしてインパクトは結果が世界全体に及ぼす連鎖的な影響(例:将来生まれる子供)となる。したがって、インパクトはオープンソース商品ということになる。つまり、受益者が考え出せるあらゆる用途に広げられる(図6–2–B)。インパクトは保健サービスの因果的な効果だが(例:死んでいたはずの子供が死なずに親になった)、保健サービスの主な意図された効果ではない。保健サービスの主な意図された効果は罹患率または死亡率のリスク低減であり、これはすでに述べたように保険機能だ。市場で取引されないアウトカム(保険機能による命の救出とそれに加えてより健康な生活など)と市場で取引されるインパクトおよび市場で取引されないインパクト(オープンソース機能を通じた、労働力の売却や友人との面会時間の増加など)を生み出す医療サービスには、それをどう計上するかという会計上の問題がある。アウトカムの価値(救われた命の価値など)を測定することは困難だが、関連するインパクトの価値を測定するのはさらに難しいことが多い。したがって、医療プロジェクトの完全な社会的価値は実際には決して計算されず、ましてや捕捉または取引可能にされることもないため、双方に利益のある医療投資の多くが実現されずに終わっている。

A diagram showing the various possible paths impact can take. After a project effects the direct beneficiary there are dotted lines of possible paths of how it can impact: family, employers, tax authorities, consumers, businesses, public services, trade partners and the global economy

図 6-2-B インパクトへの各種の経路:アウトカムが世界全体に与える連鎖的な影響を示す



たとえば、グローバルファンドは、20年間で4400万人の命を救ったという。その費用は累積支出総額554億ドル、運営費約60億ドルに上る。これらの費用は、主に国が徴収した税収で賄われており、その資金は、政府(および一部の慈善団体)が支援を約束する連続した「補充ラウンド」でプールされている。この規模の死亡リスク削減の保険価値の中央値は約200兆ドルと推定され、グローバルファンドの(割引前)アウトカムベースの投資収益率(ROI)は3000倍を超える。したがって、生み出したアウトカムの保険価値の一部を捕捉できていれば、グローバルファンドが今日世界で最も価値のある団体のひとつとなり、誰もがその株を買いたがるはずだ。実際、世界中の誰もが実質的にはすでにグローバルファンドの株を所有している。そして病気の罹患率の低下、経済成長の促進、愛する人たちが充実した生活を送るという恩恵など、さまざまな形で定期的に配当金を受け取っているのだ。問題は、これらの暗黙の未取引株から収益を上げて、その株が支払う便益を増やすための投資資金を調達する方法となる[17]

①これらの投資の保険的価値と広範な社会的価値の両方を表現する必要がある。これらは、テクノクラートによる成果評価と組み合わせたデジタル証明書に基づいてトークン化できるが、たとえば「5–6⿻投票」の節で示した「クラウドソース」インテリジェンスを使うこともできる。

②これをもとに、既存の医療資金調達で指摘されている欠点に対処するオープンインパクトプールを通じて、断片化された資金提供者と実施者を調整しよう。現在の医療資金調達の欠点に対処する、プールへの加入に関するオープンな調整標準を開発しよう。トークンは、プロジェクトまたは資金プールのガバナンスの参加に使える。プロジェクトは、寄付にリンクしたトークンを割り当てる。トークンは、ガバナンスに参加したり、取引や投資を行ったり、選択したサービスと交換したり、さらにプロジェクトに資金を提供したりするために使える。

③生成基盤モデル(GFM)やその他アプリケーションを活用して、このようなツールを形成し、個別投資に適応させるプロセスを加速する。トークン化、バンドル化、取引を通じて、健康への影響をカーボンクレジットと同じくらい簡単に購入できるようにする。トークンはプロジェクトへの再投資や、標準化された影響モデルに従った健康サービス購入に使用できる。価値は特定のプロジェクトにリンクしたり、ブロックに集約したりすることで、カスケード型(「フラクタル」)健康影響市場の発展をサポートする。

衡平な便益共有のインセンティブ

健康保険は、死亡率や罹患リスクを軽減する医療サービスに対する前払い金をプールする仕組みと、便益とリスクの再分配という柔軟な要素で構成される。特に便益分配は、民間の営利目的の主体から追加の資金源を動員するブレンドファイナンス契約の障害となってきた。しかし既存の仕組みは、新たな資金源を動員しない。民間投資家が公的リスク軽減のメリットを獲得するが、直接的(または間接的)受益者の積極的な関与確保もしないし、利害関係者や参加者による生物学的、行動学的、またはその他のサービスへの取り組みに報いる金銭的インセンティブをほとんど提供しないことが多い。受益者自身も含めた幅広いガバナンスへの参加を可能にし、予測可能な方法で利益クラス(定義された成果と影響に基づく取引可能な利益など)を製品化することにより、幅広い受益権も付与するオープンインパクトプールは、リスクと利益の両方をより公平に分配し、主要な⿻財の大規模生産を奨励することにも役立つ。

保健協力のための熟議ツール

世界はパンデミックの波に見舞われており、今世紀だけでもすでにそれが6回発生している。COVID–​19のような状況では、ある原則が際立つ。それは、公衆衛生政策は基本的な事実に関する大きな不確実性の中で策定されなければならないということだ。たとえば、2020年の初めには、世界は2つの重要な未知数に直面した。

問1 効果的なCOVIDワクチンの開発にはどのくらいの時間がかかるのか?
問2 人々はソーシャルディスタンス措置の実施を容認するか?

英国では、他の多くの場合と同じく、これら2つの質問に対する答えを完全に間違え、悲惨な結果が生じた。たとえば、英国の政策立案者は、問1の答えは「少なくとも18カ月」であり、問2の答えは「いいえ」だと確信していた(これも大した根拠はなかったが)。現在では、2020年3月時点での問1の正しい答えは「約5カ月」であり、問2の正しい答えは明らかに「はい」だったことがわかる。しかし、これらの事実について何がわかっているのか、または何が合理的に推測できるのかを明らかにするための協調的な努力がなかったため、誤った結論に達し、それらの誤りの直接的な結果として、ソーシャルディスタンス措置の導入があまりにも遅れてしまった。実際、英国ではそれが遅れすぎたため、人々や組織自身が、明確な指示なしに独自に、2020年3月13日金曜日に、英国当局がそのような措置を正式に求める10日も前に、広範囲にわたるソーシャルディスタンスを実践し始めたほどだ。

これらの事実から際立つ最も重要な点は、分散した個人集団やサッカークラブなどの緩やかに組織化された非医療団体が、世界トップクラスの疫学専門家の助言を受ける政府よりも客観的に優れたパンデミック政策を策定できるのであれば、政府は明らかに重要な情報源と分析を無視しているということだ。さまざまな共同作業、審議、投票、予測市場(つまり「ガバナンス」)テクノロジーに基づいて維持される専門家の意見引き出し[18]データベースなどのオンラインツールを使用していれば(本書第5章「民主主義」を参照)、2020年3月10日から23日の間に英国で目撃されたような「群衆の知恵」の力が桁違いに増大したはずだ。実際、長期的には、「正しい政策」よりも、社会的結束と政策立案者への国民の関与と信頼を維持するほうが重要だ。これがなければ、「政策」はすぐに無意味になるからだ。台湾はまったく違う道をたどり、たとえばマスクの供給を追跡するための市民主導の取り組みを政府が迅速に支援した。台湾は、市民主導のオンラインイニシアチブ(g0v、Polis)に迅速に力を与えることで、中央集権的な管理を強いることなく、プライバシーを尊重しながら、地域的かつ文脈的な知識の力を⿻財として活用できた。台湾の制度外のアプローチは非常に成功し、いまでは制度化されている。これらの明らかに対照的な例を見ると、次の新型パンデミックの際の政策はどう見ても、密室での協議における疫学専門家の独占領域や特権ではないだろう。大規模な集団行動の策定と調整には、⿻技術が広く使用されるだろう。

世界のほぼすべての地域で、医療は植民地支配国に由来するモデルによって運営されている。通常それは、各帝国の中心地で見られる管理形態を模倣したものになっており、そこにさらに「開発」という使命が追加されている。しかし、開発という言葉は、植民地の利益のために行動していると主張しつつ、植民地の資源を搾取する略語として機能してきた。イギリス植民地時代のインドは典型的な例だが、この話はどこでも語られる。保健問題に手を出した限りにおいて、米国経済協力局(USAID(米国国際開発庁)の前身)や英国植民地開発公社、そしてフランスの海外領土経済社会開発投資基金(FIDES)はいずれも、「経済成長が至高の目標であり、外国投資と国際融資が成長への道である」という政策を採用した[19]。当然ながら、結果はまちまちだった。それでも、カナダやオーストラリアなど、多くの旧植民地では、植民地支配の後継政権が、先住民の健康と医療モデルから学び、先住民コミュニティの価値観に従って医療やその他の医療サービスを共同管理し、先住民による解決策の自己決定を可能にするための協調的な取り組みを行っている。このような実験はまだほとんど行われていないため、これらの取り組みで生成された、大規模で分散したテキストデータをGFMで活用すれば、保健管理システムを解釈、批判、再構想し、最終的には他の文化的価値体系にもっと適応できるように再設計するための有望なツールになれる。「5–1ポスト表象コミュニケーション」で論じたように、組織や文化全体が(たとえ拡散していても)保持している「視点」は、リアルタイムのやりとりで「総合的な知恵」を提供できる「個人」役を演じたり、非植民地主義モデルに沿ってインセンティブに適合した医療や介入を設計する任務を負わせたりできる。

保健向けのポスト表象コミュニケーション

脳コンピュータインターフェース(BCI、「5–1ポスト表象コミュニケーション」を参照)は、SFの未来的な空想ではなく、日常的に使用されている身近な技術だ。一般的なOSは、感覚器官と運動器官を司る。眼鏡と補聴器は、感覚器官を介して脳とインターフェースする(一方向、または書き込みのみ)低ビットレートの計算デバイスだ。杖、松葉杖、車椅子は、感覚器官と運動器官の両方を介して脳と双方向(つまり、読み取り/書き込み)にインターフェースする低ビットレートの機械式コンピュータだ。スマートフォンやポータブルコンピュータなどのデジタル補助デバイスは、感覚運動システム(通常は視覚、聴覚、微細運動システム)を介して脳とインターフェース(読み取り/書き込み)する(わずかに)高ビットレートのデバイスだが、音声(音声認識など)、認知(CAPTCHAなど)、記憶(パスワードなど)などの高次の機能領域を介してもインターフェースする。これらのBCIは、キーボード、(タッチ)スクリーン、その他のさまざまな読み取り/書き込みインターフェースを含むさまざまな入出力デバイスを介して対話する。このような高ビットレートのデジタルコンピューティングツールは、多くの人にとって「人間であること」の不可欠な一部だ。スマートフォンをなくした人なら誰でも知っているように、それはすさまじい障害経験となる。

このようなデバイスはいまのところ(トランスヒューマン的な)人格の不可欠な部分ではないという主張はもはや陳腐化している[20]。このような技術の一般的な応用としては、モバイルヘルス(SMSアラート、ウェアラブルデバイス、接触追跡ツールなど)、テレメディスンおよびテレヘルス(仮想骨折クリニック[21]など)、eヘルス(デジタル健康記録など)などがある。インタラクティブ性のさらなる手法や高いビットレートスループットへの傾向が、特に拡張現実(XR)サービス(次の段落を参照)を通じて、視覚、聴覚、移動、セルフケア、言語障害など、健康に重要な影響を与えることは当然かつ明白なことだ。生物医学工学では、すでに細胞レベルで人工デバイスを接続するプログラム(つまりバイオニクス[22])に着手しており、BCIは、認知、感情、経験レベルでのそのような接続をほぼ確実に可能にしそうだ。たとえば、言語障害やコミュニケーション障害、記憶などの認知機能の強化(または維持)、うつ病や不安などの一般的な精神障害や中毒性障害の衝動制御に対する新しい応用なども間違いなくあるだろう。

没入型共有現実(ISR)はいまのところ非対人関係への応用が主で、パイロットのフライトシミュレーターのように、医療従事者の医療トレーニングのリスクを軽減するために使用されている。しかし複雑な認知、関係、行動スキル(セルフケア、自己洞察、自己管理など)の学習を奨励し、報いるための、保健分野のISRのゲーム化はすぐに思いつく。また、一連のシミュレーションされた対人アプリケーションへの応用(「5–2没入型共有現実(ISR)」を参照)もあるだろう。そこで引用されている例と同様に、障害を持つ人々にとって、没入感が低く、スループットが低い従来の支援技術では対応できない、シミュレーションによる社会交流と非シミュレーションの社会交流の新たな地平が開かれるかもしれない。

診断と治療支援向けGFMとデータ共有

人間の放射線技師が、生涯で目を通し、解釈できる診断用画像スキャンは、100万枚くらいだろうか。これは一般的な疾患について診断の専門家になるには十分だが、GFMは桁違いに大きなデータセットで訓練できるため、めったに見られない疾患の診断では人間の読影者よりも優れている。もちろん、人間はそのような疾患に特化し、多くの希少な画像閲覧に専念することもできるが、そうなれば⿻技術の必要性はさらに高まる。多くの画像センター間でデータ共有を確立しなければ、希少疾患の大規模な診断データベースを編纂できるはずもない。この場合も、場所、職業、親子関係などの従来の変数のみに基づいて低エントロピーポケットに整理できないマーカーの点で「親和性」を示す、拡散した多様性のポケットが見られる(「5–0協働テクノロジーと民主主義」を参照)。このような場合、別の組織原則を見つける必要があり、オンライン技術が明らかな解決策だ。このようなテクノロジーは、規範的および法的原則の両方として、プライバシーと機密性を尊重する必要もある。ゼロ(または低)知識証明などのさまざまな形式のプライバシー強化テクノロジー(「4–2団体と⿻公衆」を参照)により、特定の種類の情報を行きすぎなしに確実に共有できる[23]

FacebookやGoogleなどのWeb2.0アプリケーションでは、ユーザーはプラットフォームが提供するソーシャルな利益と引き換えに、自分の個人情報を「進んで」共有する。つまり、自分の情報が第三者によって営利目的で収集されていることを知っていても、多くの個人はオンラインのWeb2.0コミュニティのメンバーシップが純利益をもたらすと思っているらしい。だがプライバシーと実用性の間にトレードオフがない場合はどうだろうか。医療サービスへのアクセスが個人のプライバシーに対する無制限の偶発的責任を負わなかったらどうなってしまうだろうか。医療管理データが「安全」であっても、たとえばフィッシング攻撃によってシステムがハッキングされたら一巻の終わりだ。長期的には、Web2.0システムでは誰もがデータ盗難に遭う。基礎から暗号化の原則を組み込むように医療行為(患者自身の利益のために患者データが必要)と医療研究(他者の利益のために患者データが必要)を見直すのは、Web3プロジェクトの重要な一部だし、それには重要な健康への影響がある。今日でも一部の病気が依然として命に関わるのは、明らかにそのようなアプリケーションを構築できなかったせいだ。診断の例を拡張すると、患者の記録の一部を形成するあらゆる種類の医療記録(入院、治療、退院など)は、ケアと結果に関する潜在的に膨大な情報源なのに、非常に散在していて構造化されていないだけでなく、特定の制限された医療法上の状況以外では事実上照会不可能だ。弱い、または非常に交絡のある信号を、新しい因果洞察の基礎として抽出するには、おそらくGFMしかないだろう。医療行為とアウトカムの変動を見るだけでも、原理的には─人口群レベルでの─回帰不連続デザインが行うのと同様に、関連する反実仮想を特定して抽出できるはずだ。こうした慣行は各種の医療実践を一変させられる。たとえば承認後の規制変更をはるかにダイナミックで適応したものにできる。

現在、健康の生産不足によって「放置されたままの」膨大な価値を考えると、デジタル⿻技術が次の目的で活用されることは確実だろう。

・健康の資金提供者、実施者、受益者にとって、価値の層を次々に解き放つ。
・健康商品の資金調達と生産を調整する新しいメカニズムで協力したいと考える、幅広い健康の資金提供者、実施者、受益者のグループを集める。
・資金提供者、実施者、受益者による健康志向の実践コミュニティの構築を支援する。
・資金提供者、実施者、受益者による、プールされ共同で作成された健康資産の相互的、対称的、公平なガバナンスを確保する。
・健康の共同生産における新しい形の国際的、地域的、地方的な協力を可能にする。
・健康な人間(およびトランスヒューマン)活動のための新しい道を切り開く。

右で述べた障害(資金不足、市場の欠如、調整の失敗、コミュニティの欠如、不整合なインセンティブ、支援サービスの不足)は克服され、暗雲は消え去るだろう。


  1. “Share of People Who Received at Least One Dose of COVID-19 Vaccine,” Our World in Data, n.d., https://ourworldindata.org/explorers/covid?zoomToSelection=true\&facet=none\&uniformYAxis=0\&country=OWID\_AFROWID\_EUROWID\_SAMOWID\_ASIOWID\_OCE\~OWID\_WRL\&pickerSort=desc\&pickerMetric=location\&hideControls=false\&Metric=People+vaccinated\&Interval=Cumulative\&Relative+to+population=true. ↩︎

  2. “The Sustainable Development Goals Report: Special Edition,” (New York: UN DESA, July 2023), https://desapublications.un.org/file/1169/download. ↩︎

  3. “Tracking Universal Health Coverage: 2023 Global Monitoring Report,” (Geneva: World Health Organization, September 18, 2023), https://iris.who.int/bitstream/handle/10665/374059/9789240080379-eng.pdf?sequence=1. ↩︎

  4. Ibid. ↩︎

  5. “Transforming Mental Health for All,” (Geneva: World Health Organisation, 2022), https://iris.who.int/bitstream/handle/10665/356119/9789240049338-eng.pdf?sequence=1. ↩︎

  6. Noncommunicable Diseases,” World Health Organization, September 16, 2023, https://www.who.int/news-room/fact-sheets/detail/noncommunicable-diseases. ↩︎

  7. “Financing NCDs,” NCD Alliance, March 2, 2015, https://ncdalliance.org/why-ncds/financing-ncds. ↩︎

  8. “Assistive Technology.” World Health Organization: WHO, May 15, 2023. https://www.who.int/news-room/fact-sheets/detail/assistive-technology. ↩︎

  9. Jennifer Ruger, Health and Social Justice, (New York: Oxford University Press, 2010), pp. 276. ↩︎

  10. 哲学者デレク・パーフィットは, 1991年のリンドレー講演で,功利主義や平等主義とは対照的な新しい倫理理論を提唱し,これを「優先権観」と名付けた.その主な主張は,恵まれない人々が資源に対する特別な権利を持つというものである.優先権主義(この用語が使われる以前)は,少なくとも1970年代から経済学者によって社会厚生関数(「最適な課税」)の分析に使用されてきた.優先権主義は,通常はここでのように,保険の一形態とは見なされない. ↩︎

  11. John Rawls, A Theory of Justice, Revised edition, (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1999).〔『正義論』ジョン・ロールズ著, 矢島鈞次監訳, 紀伊国屋書店, 1979〕 ↩︎

  12. Kenneth Arrow, “Uncertainty and the welfare economics of medical care,” American Economic Review 53, 5 (1963): 941-973. ↩︎

  13. Healthcare.gov, “Health Savings Account (HSA),” HealthCare.gov, 2019, https://www.healthcare.gov/glossary/health-savings-account-HSA/ 参照. ↩︎

  14. Émile Durkheim, De la Division du Travail Social (Paris: Presses Universitaires de France, 1893). 〔『社会分業論 前篇, 後篇』デュルケーム著, 井伊玄太郎訳, 理想社, 1932〕 ↩︎

  15. Robin Hanson, Buy Health, Not Health Care, Cato Journal 14, 1 (1994):135-141, Summer. ↩︎

  16. Anna Gilmore, Alice Fabbri, Fran Baum, Adam Bertscher, Krista Bondy, Ha-Joon Chang, Sandro Demaio, et al., “Defining and Conceptualising the Commercial Determinants of Health,” The Lancet 401, no. 10383 (April 8, 2023): 1194–1213. https://doi.org/10.1016/S0140-6736(23)00013-2. ↩︎

  17. 2023年,この部分の寄稿者2人が, Unexiaという名称の協会をスイスで設立し,さまざまな国連やその他のパートナー組織と協力して,ここで説明する対策を推進している. ↩︎

  18. Kristin Shrader-Frechette, “Experts in Uncertainty: Opinion and Subjective Probability in Science.Roger M. Cooke,” Ethics 103, no. 3 (April 1993): 599–601, https://doi.org/10.1086/293541. ↩︎

  19. Laleh Khalili, Woke Capital, London Review of Books, 45, 17 (7 September 2023): https://www.lrb.co.uk/the-paper/v45/n17/laleh-khalili/woke-capital. ↩︎

  20. Donna Haraway, “A Cyborg Manifesto: Science, Technology, and Socialist-Feminism in the Late Twentieth Century,” in Simians, Cyborgs and Women: The Reinvention of Nature (New York; Routledge, 1991), pp. 149-181. 〔『サイボーグ・フェミニズム』ダナ・ハラウェイほか著, 巽孝之編訳, トレヴィル, 1991〕 ↩︎

  21. Gillian Anderson, Paul Jenkins, David McDonald, Robert Van Der Meer, Alec Morton, Margaret Nugent, and Lech A Rymaszewski, “Cost Comparison of Orthopaedic Fracture Pathways Using Discrete Event Simulation in a Glasgow Hospital,” BMJ Open 7, no. 9 (September 2017): e014509, https://doi.org/10.1136/bmjopen-2016-014509. ↩︎

  22. Laurent Frossard, Silvia Conforto, and Oskar Aszmann, “Editorial: Bionics Limb Prostheses: Advances in Clinical and Prosthetic Care Editorial on the Research Topic Bionic Limb Prostheses: Advances in Clinical and Prosthetic Care Context Importance of Residuum Health,” Frontiers in Rehabilitation Sciences 3 (August 18, 2022). https://doi.org/10.3389/fresc.2022.950481. ↩︎

  23. Nicola Rieke et al. “The Future of Digital Health with Federated Learning” npj Digital Medicine 3 (2020): article 119. ↩︎