情報技術と民主主義 · 2-1
玉山からの眺め
婆娑之洋、美麗之島、
公民之國、在花之中[1]。
うねる太洋の中、美しい島、
多文化の中にある市民たちの国。
東アジア最高峰、玉山ぎょくざん(翡翠の山)の頂上から、台湾を見下ろすと、この小さい山がちな島国が世界的な十字路だということもわかる。ユーラシアプレートと太平洋プレートの交点にある台湾は、地質学的な断層線に常に押し上げられているが、それは同時に定期的に地震も引き起こすので、それに対処して住民を守るため、厳格な建築規制が敷かれている。同じように、台湾の多様な文化、歴史、価値の衝突は、繁栄した革新的な社会を作り上げたし、また社会に貢献するデジタルイノベーションのおかげで、台湾は国民の分断から守られてきた。
今日の台湾は、投票率70%[2]で宗教多様性世界第2位[3]、先進的な半導体やチップの世界供給能力90%を誇る。地理的な制約を突破して、民主主義社会がその地域や世界と協力する回復力を実証してみせたのだ。
台湾はコロナ危機の間も、ロックダウンなしで世界で最低級の死亡率を実現し、同時に世界最高の経済成長率を維持し続けた。これは台湾の情報社会の多元(プルラル)精神の成果だ。マスクだろうとソーシャルディスタンスの地図だろうと、これらはすべて、協働的多様性の技術的な表れだ。そうした多様性は、台湾の日常生活に深く根ざしている[4]。
収斂の場所
台湾という名前の語源のひとつは、先住民族の言葉「タイボアン」で、「収斂しゅうれんの場所」を意味する。台湾は、地球上の他のどこよりも、ずっと前から長距離協力の出発点だったともいわれる。紀元前2千年紀にポリネシアの航海者が数千キロの旅を開始したのは台湾からだったとされている[5]。この島とその住民は、先住民族の文化、植民地列強、地域や世界の政治イデオロギーの影響を受けており、この場所の現状と可能性についての、さまざまな概念の間の継続的な対立と共創を核として作り上げられてきた。この騒々しく豊かな衝突のおかげで、絶え間ない激動の歴史によって形成された、独特な民主主義形態が生じたのである。
本書の筆頭著者(オードリー・タンとグレン・ワイル)による、2つの劇的な個人的体験が、この独特な文化政治的な状況を露わにしている。2014年3月18日、北京との新しい貿易協定の中身と決定プロセスに苛立った学生集団が、ウォール街占拠に始まった世界的な「占拠」運動に啓発されて、立法院を囲む柵を乗り越えた。その約七年後に起きた、アメリカの議事堂の似たような占拠はほんの数時間しか続かず、それでもアメリカ史上で最も対立を煽る出来事のひとつとなった。対して台湾の「ひまわり学生運動」(318学運)の占拠は百倍以上も続いた(三週間以上)。それでも抗議者たちの要求はやがて、コンセンサスとしておおむね受け入れられ、政権交代と新しい政党の台頭をもたらした。
おそらく何よりも、この運動は政治における深く永続的な変化をもたらした。当時の政府はこの運動を尊重し、大臣たちは若者や市民社会から学ぼうとして青年顧問を招いたのだ。特に積極的な政務委員のひとりであり、デジタル参加担当大臣として世界最初期のひとりである蔡玉玲は、本書の著者オードリー・タンを公務員として採用した。そしてオードリーは2016年にその役職に就任し、2022年には初のデジタル担当大臣となった。
それからほぼ10年後、著者のもうひとりグレン・ワイルは、2024年1月13日の総選挙を自分の目で見ようと台湾を訪れた。この総選挙は、空前の投票率となった「選挙の年」の発端で、GPTなどの生成モデルがいきなり世間の意識にのぼった「AIの年」の直後でもあった。GPTなどのモデルが、専制主義アクターたちによる情報操作と干渉を加速させると予想する人も多い。この選挙はまさにそのテストケースとなるように思えた。世界中のどこよりも資金力のある政治的ライバルが、少数の人口に集中的に狙いを定めていたからだ[6]。その選挙前夜に台北の街を歩いていると、そうした攻撃につけこまれそうな分裂は大量に目についた。与党の民主進歩党(DPP、以下民進党)の集会では、公式の旗はひとつもなく、島のプラカード、党のシンボルの緑色、そして時折レインボーフラッグが見られるだけだった。野党の国民党の集会では、中華民国(ROC)の国旗しかない。アメリカで民主党が歴史的なイギリス国旗を振り、共和党が星条旗を振ったら、故国アメリカでの分断はどれほど極端になってしまうことだろうか。
しかし、こうした極端な分裂にもかかわらず、ひまわり学生運動の結果として開発された技術のおかげもあって、1月13日の選挙は世界にとって前向きなモデルとなった。専制主義的な敵対勢力を向こうにまわした政党の候補者が、世論調査では優位に立ったし、選挙後にも平穏が広がり、社会全体でほぼ合意に基づく結果が実現したのだから。ひまわり学生運動後の10年にわたる活動のおかげで、ITと社会組織を活用すれば、大きく異なる見解を持つ人々を共通の進歩に導けるのだということが鮮明に示された。しかし、この能力にははるかに深い歴史的ルーツがある。そのルーツはさまざまな出発点から生まれたもので、それがデジタル民主主義のこの宿命的な10年間に収斂したのだ。
台湾の歴史的系譜
民進党と国民党とが強調するアイデンティティは対立してはいるが、それは、それぞれ「この場所は何なのか」についての、違った側面と考え方に対応したものだ。これらは、台湾島という名前の別の語源「タイウ」–「アン」と共鳴している。これは、別の近縁の先住民言語(シラヤ語)で「人々」–「場所」を意味する言葉なのだ。国民党(テーマ色は青)にとって、住民のほとんどが北京語、台湾語(台湾福建語)、客家ハッカ語などの中国語を話すことが台湾の身上となる。加えて彼らは、台湾は80%以上が北京語を第一言語として話し(中国本土では70%)、40%以上が道教などの伝統的宗教を信仰し(中国本土では20%未満)、公式の政府イデオロギーは輸入されたマルクス主義ではなく三民主義(詳細は後述)であるため、民族的・歴史的には中国本土よりも台湾のほうが「中国的」なのだとさえ主張する。対照的に、民進党(テーマ色は緑)の見解に傾く人々にとって、台湾は、多様で多文化的な歴史を持つ場所だ。属国だったのは清朝統治下のわずか2世紀にすぎない。自らの将来を自らが中心となって決める場所なのだ。これらの分裂を理解するため、この島と中華民国政府との歴史を簡単にたどろう。
台湾の歴史は、戦争、反乱、植民地化、そして国民独立の物語だらけだ。南シナ海の多くの島々と同様に、台湾の先住民は植民地拡大を図るスペイン、日本、オランダなどの帝国主義列強と遭遇した。17世紀までに、オランダ人が島の南部に、スペイン人が北部に定住した。どちらも貿易を目的とした港で、地形による困難と、先住民が植民地支配に激しく抵抗したために、欧州列強は島の大部分には入れなかった[7]。
南シナ海の商人(遭遇の仕方によっては海賊にもなる)も、日本、中国、東南アジア出身だったが、この島に定住したり、港を利用したりしていた。1662年、鄭成功または國姓爺は、新生の清朝(1644–1911)に対して公然と反乱を起こし、南部地域のオランダ人を権力の座から強制的に追放し、台湾から清に対する戦いを続けた[8]。しかし、1683年までに鄭一族の反乱は鎮圧され、台湾は名目上、清の支配下に入った。
それから200年余り後の1895年、清が日清戦争に敗れ、台湾の近代史を決定づける2つの出来事が始まった。まず清朝は台湾とその周辺の島々を日本に割譲し、半世紀に及ぶ日本の台湾への植民地支配が始まった。次に、この敗北がナショナリズム運動の台頭を促し、それが後に中華民国につながった[9]。これらの流れが分岐するにつれて、それぞれの流れを追う必要がある。
台湾では、日本による占領が民主化運動のきっかけとなった。台湾巡撫じゅん ぶの唐景崧は、支配国の交代に乗じて短命の独立国家、台湾民主国を樹立し、その鎮圧のために3万6000平方キロメートルの島で1万2000人が犠牲となった。日本による植民地支配では、台湾人を日本の文化と言語体系に組み入れる同化政策が採られた。言語、政府構造、都市建設、台湾のエリート層と知識人の教育を日本と徹底的に統合しようとするもので、その一環として、エリートや知識人の多くを日本に留学させたのだ。
大日本帝国は莫大な努力と資金を投じたが、台湾の抵抗とアイデンティティは消えなかった。各種の民族グループは「文明化」の度合いを評価され、文明化されていないグループほど日本政府は厳しく暴力的に対応した。このため、先住民、閩南ビン ナン人、客家人はそれぞれまったく違う日本統治を経験している[10]。20世紀初頭の世界的な反植民地運動の勃興と日本国内の大正デモクラシーは、台湾の知識人や活動家に自己決定の思想的基盤を与えた。1935年に行われた地方選挙では、少数の資産家男性も有権者として認められ、台湾のエリート層に限られていたとはいえ、民主的な参加が初めて体験され、それがさらなる自治と表現の追求につながった[11]。
三民主義
中国本土では、アメリカで教育を受けた若きキリスト教徒の医師で活動家の孫文(孫中山)が、やはり清国が日本に敗れたことをきっかけに、革命的民主主義の方向に向かった。だがその理由はまったく違う。清朝は改革不可能だと結論付けた孫文と彼の興中会は、一連の蜂起を主導したが失敗し、日本に亡命せざるを得なくなった。そして日本で孫文は(台湾の日本留学エリートたちと同様に)初期の民主改革を身につけたのだった。孫文は、日本、キリスト教、アメリカの影響と儒教の伝統を踏まえ、1905年に「三民主義」を提唱し、中華民国の公式理念(および国歌)となる「三民主義」の基礎を築いた。
最初の原則は民族で、これは通常「ナショナリズム」と翻訳される。だがおそらくもっと注目すべきは民族の多元主義(五族共和)の強調で、これは当時の主要な民族を表す色を含んだ、古い中華民国国旗[12]に反映されている。2番目は民権で、これは通常「民主主義」と翻訳され、選挙、リコール、発議、国民投票の権利と、五「院」(ヨーロッパの伝統の立法、行政、司法、および儒教の伝統である監察と考試)間の分権だと述べられている。3つ目は民生(「市民生活」)で、通常は「社会主義」と翻訳されるが、土地の権利の平等、反独占、協同組合事業促進の主張で知られるアメリカの政治経済学者ヘンリー・ジョージの思想を含む、さまざまな経済哲学から引き出されたものとなっている。これらの思想については、本書の次の部分でさらに詳しく議論する。
孫文はこれらの考えを活用し、外国の同盟国や世界中の外国人からの国際的な支持を築いた。これにより1911年に清を打倒し、1912年に中華民国を建国した。だが初期の成功にもかかわらず、内紛により孫文はすぐに再び亡命を余儀なくされ、再び帰国して内戦に参加。1919年になんとか軍をまとめ、現代の国民党を建国した。
その年、彼は中華民国の思想に決定的な影響を与えた別の重要人物、ジョン・デューイにも出会った。デューイはヘンリー・ジョージの弟子で、ジョージの思想を社会全体の規模で展開できないかを見るためもあって中国を訪れていたのだ。おそらく最も高名なアメリカの哲学者であり、世界的にも民主主義の教育者および哲学者のひとりとして高く評価されている人物だ。デューイの「プラグマティック」民主主義理論(彼の中国人の弟子である胡適はこれを「実験主義」と訳した)については、本書の次の部分で詳述するが、これは中華民国初期の不確実で探究的な雰囲気と共鳴するものだった。
またこの流動的で実験的な新アプローチは、清や軍閥制に反対する民主主義者に人気のあった、道教の伝統とも多くの共通点を持っていた[13]。さらに多くの帝国主義的な外国のオブザーバーとは異なり、デューイは中華民国が「協働的問題解決」という独自の道を、現代の実験的なモデル学校の軸にするよう提唱した。これによりデューイは中華民国と西洋、特に米国との架け橋のような存在となり、中国で200回以上の講演を行う一方で、『ニューリパブリック』などの新興メディアの月刊コラム連載で自分の経験を書いた。これにより彼は中華民国と米国との間に深く永続的なつながりを築くことに貢献した。
ほぼ同時期にロシア革命が成功したことで、それまでは弱小だった中国共産党に財政支援と軍事訓練がもたらされた。孫文は、中国共産党とは違うマルクス主義的な社会主義ビジョンに啓発されてはいたが、国を統一するために共産党と提携した。この取り組みは、1925年に彼が死去した時点でほぼ成功しており、国民党にとって彼は「国家の父」、共産党にとっては「革命の先駆者」となった。
しかし、その団結は長続きせず、その後20年間、共産党(毛沢東主導)と国民党(蒋介石主導)は内戦と同盟を繰り返し、軍閥や日本占領軍と戦い、1945年に日本軍が最終的に敗北するまでそれが続いた。共産党も国民党も、国の解放と自分たちの対立にばかり専念していたため、台湾は見すごされがちだった[14]。
戦後の台湾
1949年、共産党に敗れた蒋介石と中華民国軍の兵士と民間人200万人は台湾に移住し、ここを「自由中国」の本拠地と宣言すると同時に、主に台湾語と客家語を話す800万人の現地住民に戒厳令を敷いた。後に「白色テロ」と呼ばれたものだ。独裁者となった蒋介石は、中華民国こそ真の中国代表だと世界に訴えた。台湾住民は暴力的な部外者による政府を経験することになった。この政府は急速に島を掌握し、台湾人のアイデンティティの兆候を系統的に容赦なく弾圧し始めた[15]。
同時に、三民主義を公式イデオロギーとする政府は、台湾で後に民主化運動へと発展する社会改革の種をいろいろまき始めた。蒋介石は台湾やその地方エリート層と断絶していたので農村土地改革を施行できた。1949年の地代37・5%への引き下げ、1951年の公有地の払い下げ、1953年の「耕作者への土地」政策による大規模私有地の分割などだ。これは1977年の、ヘンリー・ジョージ思想に基づいた地価税の導入にまで拡大された。その詳細は後述する。多くの学者が主張しているように、これらの改革は、その後の台湾の社会経済発展に決定的な影響を与える、平等主義の経済基盤となった[16]。
三民主義のもうひとつの成果は、合作事業の重視で、これは中華民国憲法第145条に明記されている。同条には「私有財産および民営事業は、均衡ある発展に有害であると見なされる場合、国家は法律によってこれらを制限する。(中略)合作事業(中略)および外国貿易は奨励を受ける」とある。ヘンリー・ジョージ思想の影響以外に、この産業合作事業および参加型生産への支援は、日本植民地支配の間に発展した農業および産業での協力の伝統にも大きく依存し、さらにW・エドワーズ・デミングのようなアメリカ人思想家の影響も受けた。デミングは、米国占領下の日本に貢献し、生産の向上のために現場労働者の権限拡大を強調した[17]。
こうした各種の影響で、台湾の産業と政治の将来にとってきわめて重要な、強固な民間および合作事業部門(総称して第三セクターと呼ばれる)が発展した。さらに、憲法上および歴史的な貿易重視と輸出支援インフラへの公共投資が、台湾の台頭を促進した。1970年代までに、台湾は西洋ハイテクの主要な部品供給国となった。
台湾の教育制度も同様に中華民国初期の知的動乱の影響を受けた。デューイの弟子である胡適は、国民党と共に台湾に逃れたが、国民党と対立することもあった。国立研究機関である中央研究院の院長で、指導的知識人であった胡は、台湾の教育制度の発展に強い影響力を持った。胡は儒教の伝統とデューイのプラグマティズム、平等主義、民主主義を融合させ、台湾の教育を世界の羨望の的へと高め、おかげで台湾はさまざまな基準で世界ランキングのトップに躍り出た[18]。
民主主義の到来
1960年代、アメリカの公民権運動に伴い、国民党と蒋介石に対して台湾の独立と真に民主的な政府を求める声が爆発的に高まった。台湾生まれの国立台湾大学教授の彭明敏(1921–2022)と彼の教え子2人、謝聡敏と魏廷朝は、台湾の解放と独立を訴え、中華民国を違法な政府として非難する「台湾自救宣言」を掲げた[19]。この運動は彭の亡命で終わったが、宣言は全国的な議論を引き起こし、民主主義支持者による国政選挙へのアクセス要求を高めることとなった。
中華民国は国連創設国だっただけでなく、安全保障理事会の唯一のアジア常任理事国でもあったため、白色テロの中で国連こそが中華民国の初期のアイデンティティの中心だった。この際立った国際的役割は中華人民共和国政権にとって最大の悩みの種であり、彼らの国際問題への参加を妨げるものだった。このため、当初台湾独立を支持していた中国共産党は、台湾征服に重点を置くイデオロギーへと立場を替えた。そしてアメリカがベトナムでの失敗を抑えようとする中で、リチャード・ニクソン大統領は密かに中華人民共和国との妥協を模索し、1971年10月25日の総会でアルバニアが提案した決議2758号を支持して「中国」の承認を中華民国から中華人民共和国に移し、最終的に1972年にニクソン大統領が中華人民共和国を訪問した。その結果、中華民国は国連から「脱退」し、そのアイデンティティと国際的地位も変わってしまった。
一方でこの脱退は、台湾の国際活動の範囲と経済貿易活動への参加能力を大きく制限した。またこの脱退により、米国と非共産圏の多くは中華民国との無条件同盟という立場から、利益と曖昧さを慎重に均衡させる立場へと転換させ、中華人民共和国の台湾に対する暴力を阻止しようと努める一方で、「ひとつの中国」の立場を認める政策も支持している。
台湾国内では、このアイデンティティの変化により白色テロの根拠はほとんど消えた。なぜなら「共産主義の反乱」を鎮圧する戦争に世界的な支持が得られる見込みは薄れてしまい、「自由中国」という憧れのアイデンティティも弱まったからだ。平等主義が進み、第三セクター主導で高度に進歩的な教育を受けた国民と、権威主義的で抑圧的な国家との間の矛盾は、特に1970年代末までに労働組合や政治的市民団体が発展し、蒋介石が死んだことで、ますます膨れあがった。著者のひとりオードリー・タンの両親は、これらの傾向を体現している。彼らはコミュニティカレッジや消費者協同組合運動の先駆者として、中華民国憲法の合作支援の恩恵を受けた。しかしジャーナリストとして、彼らは1979年の高雄事件で投獄された政治的反対派の指導者など、国家に弾圧された人々を取材し、支援し、民主化の基盤を築いたのだ。
台湾の国際的立場が弱まったことで、白色テロ中に亡命した反体制派が、蒋介石の息子で後継者の蒋経国への圧力を強化した。若き蒋経国統治下の1980年代の台湾自由化で、民主的な行動、抗議活動、エッセイ、歌、芸術により総選挙への信念の高まりが生じた。民主主義を訴えた人々は依然として亡命中か投獄中だったが、彼らの親族や友人は地方や国の議員に立候補し始めた[20]。
活発な民主主義世代
1984年、蒋経国は李登輝(1923–2020)を初の台湾出身の副総統に選出した。これは台湾の政治情勢の変化を告げるものだった[21]。1988年に総統に就任した李登輝は、すぐに一連の民主改革を実施し、総統の直接選挙を呼びかけ、国家主権を中華民国の「自由地区の国民」(台湾諸島に住む人々)に付与した。これにより、1996年に彼は台湾で初めて直接選挙で選ばれた総統となった。インターネット時代の到来を告げるビル・ゲイツの「インターネットの津波」メモからわずか数カ月後のことだ[22]。
インターネットの津波は、すでに世界で最も技術集約的な輸出経済国のひとつだった台湾の経済と社会を、民主化に負けないほど席巻した。だからインターネットと民主主義は、台湾ではシャム双生児のようなものだ。4年後、はじめての民進党の総統、陳水扁が、国民党の分裂により僅差で当選。8年後の2008年には国民党が総統に復帰し、青陣営の「自由中国」ビジョンと緑陣営の「島国」ビジョンが交互に交代するシステムが、政治のパターンとして確立された。
しかし、ひまわり学生運動の原動力となったこの深く根強い分裂にもかかわらず、これらの視点の間には驚くほど重なり合う合意がある。
①多元主義:民進党と国民党の物語は、多元主義を強く強調するものだ。国民党にとって、それは現代文化と伝統文化(故宮博物院がその象徴)の融合と、三民主義の多元主義伝統を意味する。中華民国こそ正統文化伝承者であり、その指導者なのだというわけだ。民進党陣営は台湾に定住した人々の多様性に注目する。先住民、日本人、福建人、客家人、西洋人、新たな移民たちといった人々だ。
②外交的繊細さ:中華人民共和国との厳しい関係を乗り切るため、どちらの陣営もアメリカなどの同盟国が擁する安全保障面での態度や、中華民国と台湾の意味、「独立」という概念をめぐり、複雑で繊細な公的立場を採用せざるを得ない。
③民主的自由:どちらのイデオロギーでも、「民主主義」「自由」の発想が中核となる。民進党陣営にとって、こうした思想は白色テロと中華人民共和国の専制主義の双方を克服する、台湾の旗印の中核だ。国民党陣営にとって、三民主義の中核であり、中華民国の指導層が重視すべき性質なのだ。
④反専制主義:どちらの党も中華人民共和国での専制主義拡大を深く懸念している。特に過去10年、香港での「一国二制度」の破綻でそれがさらに顕著となった。
⑤輸出指向:どちらの党も、商業的な輸出国としての成功を称賛し、思想や文化の輸出能力が台湾の未来にきわめて重要と見なしている。国民党陣営にとって、これは中華人民共和国をもっと台湾化させるという話であり、民進党陣営にとっては「自由世界」に台湾自衛の必要性を尊重させるという話だ。
このイデオロギーの重なりに加え、どちらの陣営も、台湾が世界のエレクトロニクス産業で果たす中心的な役割から恩恵を受け、その役割に深く入り込んでいる。半導体とスマートフォンのサプライチェーンの中心地であり、世界最速のインターネット[23]も持つ台湾ほど、デジタル世界に深く関わっている国はない。
このように、多元的で、複雑であり、自由で、世界に向いた民主主義については、両党の意見は重なり合っており、コンセンサスとなっている。さらにそこで生じる曖昧さを乗り越えるために、デジタルツールがすぐに使えるのが台湾の特徴だ。この両者の組み合わせにより、台湾は過去10年間で、世界におけるデジタル民主主義の先進例となったのだ。
これは中華民国の別の解釈となる. ↩︎
“Billing Profile Information,” Central Election Commission, n.d, https://db.cec.gov.tw/ElecTable/Election?type=President. ↩︎
Joseph Liu, “Global Religious Diversity,” Pew Research Center, April 4, 2014. https://www.pewresearch.org/religion/2014/04/04/global-religious-diversity/. ↩︎
“Tracking Covid-19 Excess Deaths across Countries,” The Economist, October 20, 2021. https://www.economist.com/graphic-detail/coronavirus-excess-deaths-tracker. ↩︎
Peter Bellwood, Man’s Conquest of the Pacific: the Prehistory of Southeast Asia and Oceania (Oxford, UK: Oxford University Press, 1979). ↩︎
“Disinformation in Taiwan: International versus Domestic Perpetrators,” V-Dem, 2020. https://v-dem.net/weekly\_graph/disinformation-in-taiwan-international-versus ↩︎
Emma Teng, Taiwan’s Imagined Geography: Chinese Colonial Travel Writing and Pictures, 1683-1895, (Cambridge, Mass.: Harvard University Asia Center, 2004), 33. ↩︎
Ibid. ↩︎
Suisheng Zhao, The Dragon Roars Back: Transformational Leaders and Dynamics of Chinese Foreign Policy, (Stanford, California: Stanford University Press, 2022), 132. ↩︎
Jeffrey Jacobs, Democratizing Taiwan, (Boston: Brill, 2012), 22. ↩︎
Ashley Esarey, “Overview: Democratization and Nation Building in Taiwan” in Taiwan in Dynamic Transition: Nation Building and Democratization, edited by Thomas Gold, (Seattle: University of Washington Press, 2020), 24. ↩︎
“Flag of China (1912–1928),” n.d. Wikimedia Commons, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Flag\_of\_China\_(1912–1928).svg. ↩︎
Richard Shusterman, “Pragmatism and East‐Asian Thought,” Metaphilosophy 35, no. 1-2 (2004): 13, https://www.academia.edu/3125320/Pragmatism\_and\_East\_Asian\_Thought. ↩︎
しかしまったく無視したわけではなく,毛沢東は,朝鮮やベトナムに期待したのと同じく,台湾を独立した共産主義国家として支持し,蒋介石は(ほとんど後付けのように)戦後,満州を含む日本がかつて占領していた他の領土とともに台湾の返還を要求した. ↩︎
Chien-Jung Hsu, The Construction of National Identity in Taiwan’s Media, 1896-2012, (Leiden: Brill, 2014), 71. ↩︎
Joe Studwell, “How Asia Works: Success and Failure in the World’s Most Dynamic Region,” (London: Profile, 2013). ↩︎
第二次世界大戦後,日本の工業インフラは壊滅し,生産品質は低かった. この文脈でデミングが1950年に日本科学技術連盟(JUSE)に招聘された. 彼は統計的プロセス制御(SPC)と(Plan-Do-Check-Act)サイクルを導入し,継続的な改善と,従業員参加の重要性を強調した. 彼の原理は特に日本の自動車産業に採用され,特にトヨタが顕著で,トヨタ生産システム(TPS)の重要な一部となった. 1990年にJames P. WomackらがThe Machine That Changed the Worldを著し,トヨタ生産システムを分析して,リーン製造業として世界の人々に紹介した. James P. Womack, Daniel T. Jones and Daniel Roos, The Machine that Changed the World (New York: Free Press, 2007). 2011年に「リーンスタートアップ」という単語を考案したEric Riesは実業精神についてリーン製造業からの原理のヒントを得た. Eric Ries, The Lean Startup (New York: Crown Currency, 2011). ↩︎
“John Dewey and Free China,” Taiwan Today, January 1, 2003, https://taiwantoday.tw/news.php?unit=12,29,33,45\&post=22731. ↩︎
Ryan Dunch, and Ashley Esarey, Taiwan in Dynamic Transition: Nation-Building and Democratization, (Seattle: University Of Washington Press, 2020), 28. ↩︎
Ryan Dunch, and Ashley Esarey, Taiwan in Dynamic Transition: Nation-Building and Democratization, (Seattle: University Of Washington Press, 2020), 31. ↩︎
Jeffrey Jacobs, Democratizing Taiwan, (Boston: Brill, 2012), 62. ↩︎
Bill Gates, “The Internet Tidal Wave” May 26, 1995 available at https://www.fastcompany.com/4039009/22-years-ago-today-bill-gates-wrote-his-legendary-internet-tidal-wave-memo. ↩︎
Taiwan News, “Taiwan Has No. 1 Fastest Internet in World,” October 23, 2023. https://www.taiwannews.com.tw/en/news/5025449. ↩︎